苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

造り主、救い主なるキリスト

「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」(創世記1:27口語訳)

「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。」(コロサイ1:15−17口語訳)


「今日までの宣教は罪からの救い主としてのキリストを宣べ伝えることに終始してきたが、むしろ、まずは創造主がわれわれ人間を本来的にどれほどすばらしい存在として造ってくださったのかということを入り口として、伝えるべきである。そのあと、キリストについて語るべきである。」そういう趣旨のことを、堀越先生が語り続けておられる。
 カルヴァンは『綱要』冒頭において、神を造り主として、そして救い主として知ることが重要であると述べている。創造論と救済論とのバランスのとれた聖書理解がたいせつだということである。救済論にのみ傾いた福音理解では、教会とキリスト者の視野は天国、魂の救い、内面の救いということに限られてしまう。創造論を意識するとき、キリスト者の視野は天国や内面の救いのみならず、環境・国家・社会に広げられ、地の塩、世界の光としての役割を果たすことができるであろう。
 もっといえば、創造論の重要性を見落とし、救済論にのみ傾いた福音理解は、その福音理解自体がプラトン的ないしグノーシス的なものとなってしまう。霊のみを重視して肉体を軽んじるからである。精神のみを重んじて物質を軽んじるからである。内面のみを重んじて外界を軽んじるからである。グノーシス主義は旧約の神は物質世界を造った悪しき神であり、キリストの父なる神とは別の神であると教えた。
 もちろん正統的なキリスト教は、そんなことは教えないけれども、創造論を軽んじ救済論のみを重視していると、その終末論も、復活を軽んじ、新しい天と新しい地の到来ということは忘れられて、単に死後において霊がキリストの御許に置いておかれる「中間状態」で満足してしまうということになる。
 さりとて、創造主である神のみを知ることに満足し、救い主である神を知らぬならば、その信仰は哲学的な思弁に終わってしまうであろう。プラトンアリストテレスといった哲学者や、近代のデイストやユニテリアンたちは、創造神を認めている。創造主のみを認める人々は、人は自力で努力して自らを救わねばならないと教える。そういう彼らにとって、イエスは単なる愛の人、多くの偉人の一人にすぎない。神を造り主としてと同時に救い主として知ることは、聖書的な健全な信仰にとって非常に重要なのである。<追記2011年9月16日>パスカルは次のように言っている。「イエス・キリストなしに神をもつ哲学者たちを駁す。 哲学者たち。彼らは、神のみが愛せられ賛美されるに値する唯一のものであると信じている。しかも、彼らは自分たちが人々から愛せられ賛美されることを欲した。彼らは自己の堕落を認識していない。(後略)」(L142,B463)以上、追記

 では、神を造り主としてと同時に救い主として知るための鍵とはなんだろうか。それは、先在のキリストが父とともに万物の創造に携わり、かつ、「神のかたち」として人間の範型となられたという事実を認識することである。コロサイ1:15−17「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(ほかにも2コリント4:4、ピリピ2:6、ヘブル1:3、ヨハネ福音書1:1−3を参照せよ)
 アウグスティヌスより前の教父、エイレナイオス、オリゲネスは、創世記第1章ににおける「われわれのかたちに、人を造ろう」(創世記1:26)という「神のかたち」は三位一体における第二位格である御子を指しているという理解をしている。
 それゆえ、人が堕落して悲惨な境遇に陥ってしまったとき、御子は人となってこの世に来てくださり、われわれを本来の栄光ある姿に向かって成長するものとして引き戻してくださった。われわれがキリストを模範とし、キリストに似た者とされていくことを目指すのは、そもそも、人間がキリストに似た者として成長してゆくようにと造られたからなのである。

「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」2コリント3:18

「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。」1ヨハネ3:2

「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」ピリピ3:21

 救い主であるキリストは、造り主でもあられる。救い主であり造り主であるキリストは、旧約聖書新約聖書を結びつけ、霊とからだを結びつけ、我々と世界を結びつける。


☆関連論文はこちら⇒http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20110210/p1