苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「神のかたち」を軸とした聖書理解の展望

 神のかたちとしての御子の観点による、予定・創造・救済・終末論的な聖書理解の見通しの聖句集。


1.「神のかたち」とは御子である

*創世記1:26−27
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

*コロサイ1:15−17
御子は、見えない神のかたちeikonであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。

(ピリピ2:6 morfe、2コリント4:4 eikonも参照)

☆従来の「神のかたち」理解
創世記1章27節の「神のかたち」とは何を意味するのかということについて、古代から多くの議論がなされてきた。M.エリクソンは、実体的見解、関係的見解、機能的見解という三つに整理している 。
 実体的見解とは神のかたちを、人間の構成における明白な特徴または資質と同一視するということである。ローマ教会はエイレナイオス以来、創世記1章26,27節でかたち(ツェレム)と似姿(デムート)という二つの言葉が用いられていることに着目し、自然的賜物はツェレム、超自然的賜物はデムートであるとして、堕落によって超自然的賜物は失われたが、自然的賜物は残されているとする。しかし、創世記5章1節と同9章6節において、デムートとツェレムは相互変換可能な語として用いられているので、両者を区別する釈義的根拠はない。そういうわけで、われわれはルターにならってツェレムとデムートという二つの語が創世記1章26,27節で用いられるのはヘブル語でしばしばみられる並行法の一例にすぎないと判断したい。
 関係的見解とは「人間は特定の関係の中に立つときに神のかたちの中にいる。あるいはそのかたちを現すと言うことができるのであり、それがまさに神のかたちなのである」という見解である 。ブルンナーによれば、神に対する応答的責任関係のなかに人間があり、真の人間性を構成するのは、他者を愛することである。K.バルトによれば、「われわれは人を造ろう」と決意された神によって造られた人間が男と女として造られた点に、神のかたちを見る。
 機能的見解とは、神のかたちは人間の行うことの中にあるという見解。被造世界に対する統治支配権(dominion)の行使である。すなわち、神のかたちに造られた人に対して、神は人が被造物を支配せよと命じられた ことを理由として、人における神のかたちとは被造物に対する統治支配権であると主張するわけである。


☆「神のかたち」とは御子のことである
 筆者は、創世記1:26,27の「神のかたち」とはすなわち聖三位一体の第二位格としての御子であるという理解をすべきであると考える。なぜなら新約聖書が、そのように当該箇所を解き明かしているからである。
 コロサイ書1章15節は次のように述べる。「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」(新改訳第三版)コロサイ書はこのあと、「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(16節)と続けて、万物の創造に御子が関わられたことを述べている。
 この創造の文脈をかんがみれば、旧約聖書に通暁しているパウロが、「御子は見えない神のかたちである」と述べるとき、創世記1章26節、27節を念頭に置いていなかったとは、到底考えられない。H.リダボスもコロサイ書1章15節の「神のかたち」のという表現が、創世記1章27節に直接的に根ざしていると主張しており 、アレクサンドリアフィロングノーシス主義からの影響からコロサイ書1章1節が出ているとする説に対しては否定的見解を表明している 。
 実際、神の「かたち」という用語に注目すれば、コロサイ書はeikonという語をあてていて 、これはパウロが用いた七十人訳聖書が創世記1章27節で「神のかたち」に用いている訳語と同一である。しかも、七十人訳はkat'eikona theouすなわち「神のかたちにしたがって」と訳している。もし創世記1章27節が、新改訳第三版のように、「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し・・・」というふうに、「人は神のかたちである」という趣旨を述べていたならば、パウロはコロサイ書1章15節で「御子は見えない神のかたちである」とは述べることはしなかったであろう。だが、七十人訳が、人は「神のかたち」ではなく、人は「神のかたち」を範型として造られた者だと述べているからこそ、パウロは「御子は見えない神のかたち」であると記したのである。


☆「御子は見えない神のかたち」という意味。
 「神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。」(1テモテ6:16)とあるように、神はわれわれ被造物が近づくことも見ることもできないお方である。無限の絶対者である神を知ろうとして、神に近づく者は、太陽を知ろうとして太陽に近づく者に似ている。その見えない神を見えるようにしてくださる啓示者が御子である。御子は、啓示において、父なる神と被造物である我々の間に立ってくださる。御子は、創造において、啓示において、救済において、御父と被造物である我々との仲介者となってくださる。
 事実、創世記には神が人の姿をして親しく、人と交わってくださるありさまが出てくる。エデンの園で人に現れてくださったことを、創世記は「彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。」(3:8)と表現している。あたかもボアズが日が傾きかかったころ、その畑の農夫たちに「どうだい。きょうは、畑の様子は。」に声をかけに来たときのありさまのようである。また、アブラハムがマムレの樫の木の下にいたとき、彼を訪ねてきた三人の男たちのうちの一人は主ご自身であったと聖書はしるしている。さらにすごいのは、ヤボクの渡しで不安に震えているヤコブに現れた主である。なんと、主はヤコブとすもうを取られたのである。これほど親しく、ご自分の民と交わろうとなさる神は、聖三位一体の第二位格、御子、受肉以前のロゴスであろうと解される。


☆キリストが「神のかたち」であるという認識の効用
 グノーシス主義、マルキオン主義は、物質を悪とし精神を善とする二元論を背景として、旧約の神デミウルゴス(造物主)は悪しき神であり、新約のキリストの父なる神とは縁もゆかりもないと教えた。
 一元論であるネオプラトニズムの影響を受けたアウグスティヌスは、二元論に立つわけではないが、それでもプラトン的に物質(肉体)を軽んじ、精神(霊)を重んじる傾向が強い。その影響はファン・ルーラーもいうように、伝統的な西方キリスト教においては決定的である。
 コロサイ書は、あの創世記1章の「神のかたち」は終わりのときに人となって来られた御子なのだと解き明かすことで、グノーシス的異端を退け、旧約と新約を結びつけ、物質と精神とを結びつけ、創造論と救済論を結びつける。

 キリストを救い主としてのみならず、造り主として認識することは、私たちの信仰を深いばかりでなく、広くするのではなかろうか。救い主としてキリストを知るのみでは、私たちはキリストと親しく天国への望みは生き生きしていたとしても、地の塩として世の光としての任務を十分自覚しえないのではなかろうか。御子を造り主として知るときに、我々は御子が造り摂理されているこの世界を、神の栄光があらわされるべき舞台として認識して、そのように生きていくことができる。「みこころの天になるごとく、地にもならせたまえ」と祈りながら。



2.神は私たちを「御子のかたち」として、また御子を長子とする神の家族として成長するように、予定された。

*ローマ8:28−29
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちeikonに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。

*エペソ1:3−5
ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。


☆神の民の選び
 これらのみことばは、万物の創造に先立つ神の選びについて啓示している。それは、神の主権の絶対性と救いの確かさの保証である。選ばれた者は、御子のかたちに似た者となるようにと計画されている。また、選ばれた者たちはそれぞれ単独者ではなく、御子を長子とする兄弟姉妹、神の民なのである。成長は神の民という共同体としての成長を意味している。
 それは神の民の成長が愛の成長であり、愛は洞窟の中の瞑想においてでなく、人格と人格の交流のうちにこそ実を結ぶものであるからである。



3.三一の神は人を「神のかたちである御子」にしたがって造られた。

*創世記1:26−27
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

*コロサイ1:15−17
御子は、見えない神のかたちeikonであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。


☆三一の神が
 「われわれ」を尊厳の複数と解する人々がいる。もし聖書記者は自分ですべて理解したことのみを記しており、聖書釈義とはその記者の意図に到達することだとすれば、それが限界であろう。聖三位一体をまだ知らされていない創世記記者が、「われわれ」ということばに三位一体の意味を意図して託したとはいえないからである。
 だが、新約聖書ヨハネ福音書1章1−3節、同17章5節、24節、コロサイ書1章15−17節は、創世記記者にも隠されていた創世記1章26節の「われわれ」の隠されていた意味を開示することを意図して記されたと思われる。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は初めに神と共にあった。 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。」(ヨハネ1:1−3)「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。」(コロサイ1:15,16)すなわち、創造の場面には御子が父とともにおられたということである。
 聖書記者は神から与えられたことばの必ずしもすべてを理解して記したわけではなく、霊感によって与えられたままに書き記したということを意味していると言わねばならない。聖書記者にさえ隠されていた意味は、漸進的な啓示のプロセスによって明らかにされて来たということである。 格別、新約の時代をむかえて、旧約時代には聖書記者にさえ謎とされていた箇所の意味も開示されてきた。






4.人は「神のかたち」を毀損してしまった

☆サタンの誘惑
「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:5)。
 サタンによる誘惑のことばは非常に微妙で巧妙なものである。「神のようになる」ことは、本来、神の御子のかたちに似せて造られた人間の目指すべきことであったからである。主イエスも弟子たちに対して、「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)と言われた。キリスト者の聖化とは、「見えない神のかたち」であるキリストに似せられて行く事であり、それはとりもなおさず、神に似ることでもある。だから、「神のようになる」こと自体は、罪ではない。
 では、何が罪だったのか。それは、神のことばに背いて、神のようになろうとしたことである。神に反逆・自律して、神のようになろうとすることは、自己神格化にあたるといってよいのではないか。


☆サタンの圧制の下に
 このように神にそむいた人間は、自ら神のように自律的な者となることを志したのであるが、現実にはサタンによる暗闇の圧制の下に置かれることになった。そのありさまは、次のように描写される。
 「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、 2:2かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。 2:3また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。 」(エペソ2:1−3)




☆「神のかたち」の毀損の程度と自然神学の可能性・不可能性
 人は本来、見えない神のかたちである御子に似る者として造られ、さらに御子に完全に似るべく成長していくように造られていた。善悪の知識の木の、信仰の試練を経て、さらに人は成熟して御子に似るものとなるはずであった。
 しかし、人は悪魔の誘惑に乗せられて与えられた自由意志を誤って用い、神が禁じた善悪の知識の木から取って食べてしまう。その結果、人は「神のかたち」を毀損してしまった。
 神のかたちがどの程度毀損されたかについては昔から議論がある。近年の論争としては、バルトとブルンナーの自然神学論争が有名である。ブルンナーは神のかたちが残っているからこそ、一般啓示による人間の自然的神認識と自然的良心の律法に対する応答可能性が福音を受け入れる前提であるとしたが、バルトはそんなことはないん(Nein)だと応じて、二人は決裂した。バルトは徹底的に自然神学を排した。上述したように、ローマ教会は神のかたちを自然的賜物と超自然的賜物とに区別して、アダムの堕落によって超自然的賜物は失われたが、自然的賜物は失われていないとして、自然神学を認める立場だった。
 聖書はなんと教えているだろう。創世記9:6には「人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに。」と記されて、「神のかたち」として人が造られたことが殺人が罪とされる根拠とさされていることを見れば、堕落後も人には「神のかたち」が少なくともなんらかの意味で残っていると理解すべきであると思われる。
 ローマ書1章18節から21節「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。 1:19なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。 1:20神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。 1:21なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。」
 ここには「神について知りうる事がらは、彼らに明らか」であるとされていることを取り上げてローマ教会は自然神学を積極的に主張してきたし、第二バチカン以降は一層その傾向が強い。しかし、ローマ書の文脈からいえば、それはまちがいである。人はたしかに被造物をとおして神を知ることができるのであるが、それで回心にいたるのかといえば、そうではなくて神を知っていながら神を神としてあがめず、感謝もせず、かえって偶像崇拝に走ってしまうものであり、そこに神の怒りが啓示されているのだと述べられている。被造物を通しての神の啓示は、人を救いに導くのではなく、まず人を「あなたは神を知っていながら神をあがめなかったではないか」と弁解の余地なきものとするために与えられる。

☆「人間の悲惨は、王座から転落した王の悲惨である。」とパスカルは言った。本来、人間は良き者であり、神のかたちであったからこそ、そうでなくなったことが悲惨なのである。人間はゴキブリではなく、神の御子をもととして造られた存在である。だからこそ、人間が神に背を向け、王座から転落したことは悲惨極まりないものなのである。


5.御子は、もともとご自分に似せて造った人性をまとって受肉され、十字架において人間の罪を担われた。

*ピリピ2:6−8
キリストは、神のかたちmorfeであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちmorfeをとり、人間の姿homoiomaになられた。その有様schemaは人と異ならず、 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。


☆人の創造と御子の受肉の関係
 創世記1:26,27の「神のかたち」が御子であるとすれば、御子の受肉の出来事は唐突な出来事ではなかったのだと了解されるだろう。人性というものは、そもそも「神のかたち」である御子に似せて造られたものだからである。神は無限であり、人は有限であることを思えば、たしかに神と人との間には、本質的な隔たりがあり、神がきよいお方であり、人が罪に堕ちた現実を思えば、そこには倫理的な隔たりもある。
 それは事実であるけれども、それでも人は本来御子に似た者として造られたのであり、堕落後もある「神のかたち」を残している。ルカ伝15章の「放蕩息子のたとえ」に基づいて言えば、家出をして放蕩三昧をして垢まみれになって息子が父の許に帰ってきた。そのとき、帰ってきたのはゴキブリではなく、垢まみれではあったけれど確かに父の息子であった。父はゴキブリに駆け寄ったのではなく、わが子に駆け寄ったのである。
 ちなみに、この譬えにおける「父」は父なる神と取るのがふつうだが、筆者としてはむしろイエスと取るのがよいと考えている。


6.キリストによる贖いを受けた人は、闇の圧制から御子の支配のもとに移された。

*コロサイ1:13-15
神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。 わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。

☆暗闇の圧制から御子の支配へ
 暗闇の圧制とは、悪魔の霊的な支配力の下におかれていることを意味しています。エペソ書2:1,2では、「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」とパウロが説明していたことです。サタンの支配が暗闇の支配であるというのは、ひとつには暗闇の中で真理が見えなくなっているという意味でしょう。かつてまことの神を見失っているので、人が石や木を刻んだものを恐れてこれを拝んでいたことなどは、私たちが暗闇の中にいたもっともわかりやすいしるしです。またサタンの支配が暗闇の支配であるというのは、そこには口に出していうのも憚られ闇の中に隠しておきたいような恥ずべき行いがあるからです。
 しかし、御子イエスは私たちと同じような人となって地上に住まわれ、私たち人間の悩みや苦しみや痛みを経験されました。御子は父のご意思にしたがって、栄光の天の御座をあとにして、わたし達が住んでいるこの罪と危険に満ちた世の中にくだってきてくださいました。人間と同じように、母の胎から生まれて、罪こそ犯されませんでしたが、私たちと同じように空腹も痛みも悲しみも経験してくださいました。「まぶねの中にうぶごえ上げ、たくみの家に人となりて、貧しき憂い、生くるなやみを、つぶさになめ」てくださったのです。そうして、人間の罪の贖いのために生身のおからだで十字架にかかられて、わたし達が受けるべき罪の呪いを受けてくださいました。そして、呪いの杯を最後の一滴までも飲み干されたので、三日目に復活してのろいが過ぎ去ったことを証明してくださいました。そして、サタンの暗闇の圧制から解放して、ご自身の支配のもとに置いてくださいました。
「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」(コロサイ1:13,14)
 「移してくださいました。」「赦しを得ています。」と繰り返されるように、クリスチャンはすでに罪を赦されていますし、すでに暗闇の圧制から御子のご支配の中に移されているのです。ときに誘惑に敗れて罪を犯してしまったとき、サタンはあなたに言うでしょう。「それみろ、お前はまだ俺のものだ。俺のしもべがお似合いだよ。」などと。欺かれてはいけません。南北戦争のとき、リンカーンが「奴隷解放宣言」を発令しました。南部の綿花をつくっているプランテーション主たちは頭を抱えました。けれども、ある狡猾なプランテーション経営者は言ったそうです。「大丈夫だ。確かに解放の発令はされたけれど、奴隷のやつらはなにも知らない。自分がまだ奴隷だと思わせておけば、今までどおりと同じことだよ。」・・・サタンにだまされてはいけません。イエス様を信じたあなたは、すでに暗闇の圧制から御子の支配のもとに移されているのです。(2011年9月28日追記



7.御子を長子とする神の家族(教会)は、完成への希望をもって御子と同じ姿に変えられて行く。その聖化は共同体的聖化である。

*2コリント3:18
わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿eikonに変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

*1ヨハネ3:2,3
 愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。

*ピリピ3:20,21
しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。 彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。


*ローマ8:29
神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちeikonに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。

*エペソ4:12,13
それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、 わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。