苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

アウグスティヌス以前の「神のかたち」キリスト論メモ

再掲載

そして、神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」とおおせられた。
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」創世記1章26,27節


「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」コロサイ書1章15節

 エイレナイオス(130-200AD)は、創造における「神のかたち」は御子であると述べている。「『・・・(神は)人を神の似像として造ったからである。』そして、似像とは神の子であり、人間は(その神の子の)似像に造られたのであった。 」またエイレナイオスは御子と聖霊を父なる神の両手に譬える独特な聖三位一体の理解に基づいて、御子を「かたち」に聖霊を「似姿」に関係付け、神はこの両手でもって人間を造られたとし、「かたち」は人間においては、肉体 ・理性・自由・自律性といった本性に見出されるという。他方、聖霊が与える「似姿」とは、肉体の救いを究極的に完成させる神の本性としての「不死性」を意味する。

 オリゲネス(185-254AD)は、『諸原理について』第三巻で創世記1章26節のこれら二つのことばを区別して解釈している。すなわち、神が26節で「我々のかたち、我々の似姿にしたがって人を造ろう」と言いながら、27節で「神のかたちに従って造り」と述べて、似姿については沈黙しているのは、「人間が最初に創造されたときに、像(かたち)としての身分を与えられたが、似姿という完全さは完成の時まで留保されていることを示しているのにほかならない。(中略)像としての身分を与えられたことで、始めから完全になることの可能性が人間に与えられているが、人間は終わりの時になって初めて、わざを遂行することによって、完全な似姿を自ら仕上げるべきである 。」というのである。
 オリゲネスが「神のかたち」について述べていることの中でさらに注目すべきことは、創世記1章における「神のかたち」とは御子であると述べていることである。「では、その像に似姿として人間が造られた神の像として、われらの救い主のほかに何があろう。この方こそ、『すべて造られたものに先立って生まれた方』(コロ1:15)であり、『神の栄光の輝きであり、神の本質の完全な現れ』(ヘブ1:3)と言われた方であり、自ら自身について『私は父のうちにおり、父は私の内におられる』(ヨハ14:10)、『私を見た者は父を見たのである』(ヨハ14:9)という方である。 」
 このように、オリゲネスとエイレナイオスが共通して述べているのは、創世記1章における「神のかたち」は御子であるということと、創造における人間は未完成であって、終わりの時に究極的な完成を見るということである。

 またアタナシオスも『言の受肉』において次のように言っている。「善なる方として〔神は〕、彼ら人間をご自分の像であるわれらの主イエス・キリストにあずからせ、ご自分の像にかたどり、似姿にかたどって彼ら〔人間〕を造られたのである。」〔11:3〕
「父の像である、父のいとも聖なる子が、ご自分にかたどって造られた人間を新たにし、罪の赦しを通して失われたものを取り戻すために、われわれのところに来られたのである。」(14:1)

 『福音主義神学』41号に論文「神のかたちであるキリスト」を発表して後、深まりつつあるひとつの思いは、実はエイレナイオス、オリゲネス、アタナシオスの創世記1章の「神のかたち」に関する理解は、新約聖書パウロヨハネ)そのものの創世記1章の「神のかたち」理解であり、アウグスティヌスより前の古代教会における一般的な理解だったのではないかということである。
 初代キリスト教会・古代教会における主要な関心事の一つは、キリストが受肉以前の旧約時代に生きておられ、さらに御父とともに永遠にいまし、旧約時代にも生きていましたお方であられるということであった。イエスが神であられる以上、それは当然のことであった。もしそうでなければ、ナザレのイエスは単なる新興宗教の教祖にすぎないことになってしまう。イエスご自身の言明においても、ご自分はアブラハムにあたかも昨日会ってきたように話された(ヨハネ8:58)。預言者イザヤはイエスの栄光を見たのだとも言われている(イザヤ6:1,ヨハネ12:41)。ヨハネ福音書冒頭にも、同17章のイエスの大祭司の祈りにも、ピリピ書のキリストの受肉についての記述にも、われわれは先在のキリストを見る。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は初めに神と共にあった。」ヨハネ1:1,2
「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。」ヨハネ17:5
「 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、」ピリピ2:6
 創世記1章26,27の「神のかたち」がキリストであるというコロサイ書の記述は、上述のような新約聖書の記述のひとつだということができようし、初代キリスト教会の旧約におけるキリスト理解のひとつであったと思われる。