「われわれに似るように、われわれのかたちにおいて、人を造ろう。・・(中略)・・神はこのように、人をご自身のかたちにおいて創造された。・・(後略)」(創世記1:26、27 私訳)
神はこのようにおっしゃって、人間を造りました。注目すべき表現が二つあります。ひとつは、唯一の神がご自分をさしておっしゃる「われわれ」ということばです。唯一の神のうちには複数の人格があるようです。もうひとつは、「かたち」ということばです。
これと対応する新約聖書の箇所がヨハネ福音書とコロサイ書にあります。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1:1-3)
ヨハネ福音書のもうひとつの箇所は、最後の晩餐席上での主イエスの祈りです。
「世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」(ヨハネ17:5)
コロサイ書には次のようにあります。
「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ1:15-17)
永遠の昔から父と子は御霊における交わりのうちに生きておられます。ですから、御父が御子に向かって「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」と呼びかけていらっしゃるのだと考えられます。
*「神のかたち」について
もう一点注目すべきは、「われわれのかたちに」といわれた「かたち」です。これは七十人訳聖書でeikonと訳されており、これを踏襲して、コロサイ書は「御子は見えない神のかたち(eikon)であり」と言っています。
したがって、「かたち」とは三位一体の第二位格である御子のことです。御父は「近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です」(1テモテ6:15,16)が、この見えないお方を見えるようにしてくださる啓示の務めを担われる「神のかたち」が御子です。しかも、御子をモデルとして、人は造られたのです。
新改訳聖書第三版は、「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」(26)「神は人をご自身のかたちとして創造された。」(27)と、<神のかたちは人である>という解釈に基づいた訳をしていますが、筆者としては上述のように、<神のかたちは御子であり、人は御子に似せて造られた>という解釈のほうが、新約における啓示と調和しているので、適切であると考えます。文語訳聖書は次のように訳していました。
「我儕(われら)に象りて我儕の像の如くに我儕人を造り・・(中略)・・神其像の如くに人を創造たまへり(後略)」(創世記1:26、27明治文語訳)やはり、人イコール「神の像」ではなく、人は「神の像」のように創造されたと訳されています。 英訳聖書のほとんどは26節はin our image,27節はin his own imageまたはin his imageと訳しています。やはり、人イコール「神の像」ではなく、人は「神の像」において創造されたのだということです。このように訳したほうが、コロサイ書1章15節と調和します。ヘブル語本文では、「be」いう前置詞が用いられていますが、in、「において」と訳されるのが普通です。
以上から見ると、三位一体の第二位格である御子は、救済において神と人との仲保者となられる以前に、そもそも創造と啓示において神と人との仲保の役割を担われていたことがわかります。御子は、創造・啓示・救済において、仲保者です。
「神は唯一です。また、神と人との間の仲保者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(2テモテ2:5)