苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

N.T.ライトに惹かれる人々の傾向

 昨日のHBI講師教師研修会の最後の時間は、前夜に4人ずつテーブルに分かれそこから出た質問に対する答えの時でした。さまざまな質問がある中で、「日本人はなぜライトのような説に惹かれるのでしょう。」というものがありました。私は日本人キリスト者がみなライトに惹かれるとは到底思えません。まず、ライトの本は分かりやすく書かれていないからです。ですが、我慢強く読める人々の中で、ライトに惹かれる人たちにはある傾向があると思っています。ライトに惹かれるのには2つの理由があると思います。

 一つの理由は、幼いころから親たちの強烈な罪の悔い改めやきよめの体験の証しを聞かされたけれど、自分は幼い日からまじめに教会に通っていて、強烈な罪の悔い改め体験がないことでひそかに悩んできた人です。そうした悩みある人にとって、個人としての深い罪認識の必要性を語らず、悔い改めを求めず、義認とは救済論でなく教会論のことなのだと断じるライトに出会うと、「なんだ、悩まなくてよかったんだ」と感じられるのでしょう。ライト説によれば、神が契約に対する真実のゆえに、教会を義と宣言してくださるのだから、教会に属していれば良いというのですから。むろんこんな義認解釈は、二千年におよぶキリスト教会史上初という珍説なのですが。

 もう一つの理由は、幼い日から説教壇から聞かされたことばは、十字架にかかられたキリストに集中していて、キリスト者としての人生観や世界観や歴史観といったことを聞かされたことがなかった。横目で見れば改革派神学には文化命令だの契約神学だのキリスト教世界観といったものがあるらしいけれど、今さらアルミニウス主義の自分としては、改革派神学に転じるわけにもいかない。ところが、大雑把にはアルミニウス主義である英国国教会の聖書学者ライトを読めば、改革派に転じなくても、契約を軸として終末に完成する神の王国の展開として聖書を把握し、世界的視野も広げることができる。それならば、ライトについていこうということではないかと思います。

 率直に言って、もし上のような悩みを抱いているならば、改革派系の神学に学んだほうが魂のために安全だと思います。このブログにも時々メモするように、私は別に改革派神学が完璧だなどとは思っていませんけれども。