苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

罪認識と神学の三体系

 今日は福音主義神学会が東京で行われ、ルーテル学院大学の鈴木浩先生が「罪論」の話をしてくださるので、出かけたいと思っていたのですが、出かけられません。そこで、午前中、鈴木先生の論文と説教をいくつか読みました。そのなかで一番印象深いフレーズは、「罪認識の欠如の度合いに正確に比例して、義認論はその力強さを失う。」です。なぜ、現代、キリストの十字架の福音が、力を失っているのか。それは、教会の歴史を通じて、いまだかつてないほどに罪の認識が欠如しているからです。
 神学生時代に立ち読みしたA.A.ホッジ『神学のアウトライン』に書いてあった下のことを思い出しました。


 罪認識は、神学のアルキメデス点(支点)であって、罪認識の違いが三種の神学体系を形成することになる。
 第一は、人間の本性は善であるとする立場で、その場合、救済は自分で自分を救う自力救済主義となり、人間にとってキリストは模範者(愛の教師)にすぎないものとなる。この系譜は<ペラギウスーソッツィーニー自由主義神学>。
 第二は、人間の本性は原罪によって汚れている立場で、その場合、救済は自分で自分を救えないからただ恩寵によって救われるという恩寵救済主義となり、人間にとってキリストは贖罪者であることが第一義的なことであり、模範者であるということは第二義的なこととなる。この系譜は<アウグスティヌスールター・カルヴァン>。
 第三は、両者の中間であって、人間の本性は原罪によって汚れてはいるものの、善を意志することもできるとするもの。この場合、人間の救いは、神と人間の協力によって成し遂げられるとする神人協力説ということになる。つまり、半アウグスティヌス半ペラギウス主義であって、これは<ローマ教会トマス主義、プロテスタントアルミニウス主義>の立場。

 J.I.パッカーの贖罪論を読んでいても、この三体系の見方は有効だとおもいました。というか、論理的な筋として、この三つしかありえません。