苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

現在の「神の国」の用語法への疑問

 今日、キリスト教界では「神の国」ということばは、しばしば主イエスの用語法と異なる用い方がされている。すなわち、「神の国」とは「神の支配」という意味であるから、その範囲は教会にとどまらず神のことばの影響が及ぶもっと広い範囲であるというのである。そうして、「神の国」ということばをテコにして、社会的責任にも教会は積極的に臨むべきだという。
 しかし、主イエスは言われた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)
「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」(ヨハネ3:5)
 すなわち聖霊による新生がなければ、神の国を見ることも入ることもできないのである。ということは、「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)という福音を受け入れ、悔い改めて主イエスを信じた者しか、神の国を見ることも入ることもできないということである。「神の国」は真のキリスト者が属する国であるから、その構成員に関して言うならば、むしろ毒麦さえも含む地上の教会よりも狭い範囲なのである。

  キリスト者と教会に社会的責任がないというわけではない。それは創世記1章26,27節、2章15節にある、文化命令に基づいて教えればよいことであろう。もっとも文化命令というものは、神の国建設命令というふうに解することができる。