苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

この岩盤の上に

マタイ16.13−20

1 ピリポ・カイザリヤ

  16:13 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、

エス様は弟子たちをガリラヤ地方の北東部、ヘロデ・ピリポの所領にあるピリポ・カイザリヤに導きました。ヘロデ大王がカイザルのアウグストから拝領したこの地に、パネアスという町を造り異教のパンの神像と皇帝像を並べて祀る大理石の神社を造りました。大王の死後、この地域を相続したヘロデ・ピリポは、パネアスの町をさらに整備してカイザリア(皇帝の町)という名を付けて、皇帝に敬意を表したのでした。ピリポ・カイザリアは、自然神崇拝と皇帝礼拝の町でした。
もともとローマは共和制で元老院が治めていたのですが、地中海世界全体を版図に治めるようになると、共和制が機能しなくなってきて、皇帝アウグストのときから帝政に移行します。東洋風に皇帝の神格化がなされるようになってゆき、帝国民にはローマ皇帝の像を「カイザルは主です」と告白し、いけにえをささげることが義務付けられるようになってゆきます。
主イエスが「あなたは生ける神の御子キリストです」という信仰告白使徒から受け取り、新約の教会設立を宣言なさったのが、このピリポ・カイザリヤであったことはそういうわけで、意味深いことです。近い将来、キリスト教会は国家主義・皇帝礼拝との霊的戦いは、「あなたこそ生ける神の御子キリストです」という信仰告白をもってたたかってゆくことになります。

国家権力というものは、アダム以来堕落してしまった人類が社会生活をするために、神がお立てになった剣の務め、警察権を起源としています。そういう意味で国家というものは「神のしもべ」です。しかし、えてして権力者は思い上がって、自らを絶対化し神格化する傾向、つまり、国家主義に陥る傾向があることを聖書は何度も警告しています。いかなる状況になったとしても、私たちは「国家権力は主ではない、ただイエスこそ主です」と告白するのです。


2 あなたはイエスを誰と言うか?

(1)世間の噂
  さて、イエス様は弟子たちに質問なさいました。

「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」

 世間の人々はイエス様についていろいろうわさをしていました。「バプテスマのヨハネが生き返ったのだ」と言って恐れていたのは、ヘロデ・アンテパスでした。ヨハネはイエス様の従兄弟で、教えに共通しているところがありましたから、ありそうな噂です。エリヤというのは旧約時代、アハブ、イゼベルと戦った勇ましい炎の預言者です。だというのは、当時、メシヤを待望する人々はメシヤが来る前にエリヤがやって来て、その準備をするのだと信じていました。
 興味深いのは、他の人はイエス様を「預言者エレミヤの再来だ」と言っていたという点です。エレミヤという預言者は滅びようとしている祖国のために、朝から晩まで涙を流していた「涙の預言者」でした。激しい炎の預言者エリヤと、涙を流し続けた預言者エレミヤの両方の側面をイエス様はもっていらしたのでしょう。
 それはともかく、あの不思議な人イエスとは誰なのか?という質問はずっと昔から今日まで何度も発せられて来ました。イエス様はほんとうに不思議な人です。今日、世界中の人々がその誕生の記念日であるクリスマスをお祝いしている人です。先日の報道では、昭和天皇の子供時代にはクリスマスを祝っていたといいます。そして、イエスという人の誕生の前と後ろで世界の歴史は、Before Christ Anno Dominiと二分されます。これほど愛されているお方の最後は十字架刑であったというのも、不思議なことです。
日本人の多くはイエス様は世界三大宗教のひとつキリスト教創始者であるというふうに考えるのでしょう。19世紀の聖書を信じられない合理主義の学者は、「イエスは愛の教師だ」といったり、もう少し手前20世紀ロシア革命毛沢東革命の時代になると「イエスは革命家だ」といったり、20世紀の終わりにはイエス様が水の上を歩いたり病気を癒すのを取り上げて「イエスは霊能者、ヨガの先生だ」というふうなことをいうニューエイジの人々がいました。
結局、不信仰な人たちは、聖書を適当につまみぐいして、自分の好みのイエス様の一面を取り上げて、エリヤだ、エレミヤだ、愛の教師だ、革命家だ、ヨガの先生だなどと勝手なことを言ってきたのです。


(2)では、あなたがたは?
 世間の人たちはイエス様について好き勝手な噂をするでしょう。勝手に言わせておきなさい。肝心なことは、では、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(16:15)という問いにあなた自身はどう答えるのか、ということです。そこに、あなたの永遠の運命がかかっているのです。
 この問いかけは、「あなたがたは」と十二人の弟子たちみなに向けられましたが、いつものように自称一番弟子シモン・ペテロがしゃしゃり出て答えました。

16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

 ガリラヤの湖畔でイエス様から「わたしについて来なさい。あなたを人間をとる漁師にしてあげよう」と声をかけられて、したがったあの日から、シモンは四六時中イエス様ととともに生活をしてきました。そして、イエス様のお言葉とみわざと品性をつぶさに見てきたのです。
みわざについて言うならば、イエス様のなさる病の癒しや悪霊追放を見たり、嵐を「黙れ沈まれ」と言って鎮めてしまわれたり、ガリラヤ湖の上を歩いてこられたり、五千人もの人々をわずかなパンと魚で満腹させたりという数々の奇跡を、シモンは見てきました。自然法則をも支配しているお方の力が、イエス様から発揮されていることをシモンは目撃したのです。
また、あの丘の上で語られた、「心の貧しい者はさいわいです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。・・・」という慰めと厳しさときよさに満ちた天来のおことばをペテロは聞きました。イエスは「あなたの敵を愛しなさい」とも教えました。イエス様の口から出てきたおことばは、律法学者や宗教家や哲学者や到底考え付くことのできる教えではありませんでした。それは、天からのことばでした。
そして、これは後にペテロが手紙の中で証言しているイエス様の品性についてです。

「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。」(1ペテロ2:22)

三年間四六時中イエス様とともに生活をしてきて、ペテロは振り返って「ああ、あのお方は一度たりとも罪を犯したことがなかった。何の偽りもなかったなあ。」と言っているのです。結婚前、ふたりは「こんなにすばらしい人はいない」と思って結婚しますが、いっしょに暮らし始めて三日もたつとぼろが出てきて、「なんだ。普通の人なんだ。」とわかるというのが普通です。ところが、ペテロは四六時中3年間いっしょに暮らして、「あのお方は罪を犯さなかった。あのお方は、ほんとうに敵をも愛した、愛そのもののお方であったなあ。」と振り返っているのです。
私どもも虚心坦懐に(偏見をもたずに)福音書に記されたイエス様のお言葉、行動、品性を見ていくならば、たしかにこのお方は生ける神の御子であるということは、客観的な事実です。


(3)イエス様がどなたであるかがわかるのは
 イエス様は客観的真理として、生ける神の御子です。客観的な真理というのは、私たちがそれを信じようと信じまいと本当のことだということです。でも、その客観的真理を私たちは自分では悟ることができなくなっています。罪ゆえに私たちの理性は曇ってしまっているからです。また、そもそも有限な人間にすぎない私たちが、無限のお方を百パーセント知るということ自体無理なことです。私たち、有限であり、かつ、罪に穢れてしまっている者が無限のお方を知ることができるとすれば、無限のお方である神様が私たちの霊に向かって語ってくださってこそ可能なことのです。

16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」

 私たち自身も天の父が私たちのうちに聖霊によって明らかにしてくださったからこそ、イエス様は神の御子であるということを知ることができました。なんと有難いことでしょうか。また、そういうことですから、自分の家族や友人がどんなにかたくなにしていても、神様に期待して、そういう家族友人がイエス様を神の御子と信じる日が来ることを神事続けて、祈りを怠ることがないようにしましょう。


3 教会

(1)「この岩盤の上に、わたしの教会を」
 イエス様は「あなたは生ける神の御子キリストです」という信仰告白を受けて、その信仰告白という土台の上に、ご自分の教会を建てると宣言なさいます。
「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」(16:18)
 イエス様はずっと前にすでにシモンにペテロというニックネームを与えていました(ヨハネ1:42)が、このとき、改めてイエス様はシモンにペテロという名を与えたことを確認なさいました。ペテロスというのは転がせるような石を意味しますが、イエス様はこの岩の上に教会を建てるとおっしゃった「岩ペトラ」は揺るがない岩盤を意味しています。ペテロ自身は揺るぎうる石ですが、ペテロの告白した「あなたは生ける神の御子キリストです」という信仰告白は揺るぐことのない岩盤です。この信仰告白を岩盤として、二千年のキリスト教会は建ちつづけてきました。
 大事なことは、教会は、ローマ皇帝やその後現れる権力者のものではなく、主イエス・キリストのものだという真理です。歴史を振り返ると、しばしば時の権力者が「教会は国家のものである」というふうに主張してきました。ローマ帝国は最初キリスト教会が小さな群れであったときには、これを無視していました。やがて、多くの帝国民がキリスト教徒になると弾圧を始めました。ですが、さらにキリスト教徒が増えると、今度は手のひらを返して、キリスト教会を利用してきました。国の言うことをきかせるために、教会を利用しようとしてきたのです。
 遠くヨーロッパのことではなく、日本でも同じことが起こりました。キリスト教は江戸時代と明治の初めまで、きびしく弾圧されました。ですが、先の戦争のとき、国家総動員運動のなかで仏教・神道とあわせキリスト教会をも利用して、国民精神を戦争へと駆り立てる道具としようとしました。国家権力がサタンにとりつかれると、そういう行動に走るものなのです。黙示録13章には、サタンの手下になった国家と国家教会の行動がしるされています。サタンの手下になった国家は教会を弾圧し、偽預言者となった教会は神の言葉でなくサタンのことばを語ります。
ですが、主イエスはおっしゃいます。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」教会は、国家のものではなく、主イエス・キリストのものです。教会は主イエスのものですから、その説教壇からは、主イエスのみこころにかなうことばが語られなければなりません。

(2)鍵の務め
 そして主イエスは、教会に託された鍵について話されます。教会に託された鍵とは天国の鍵であるキリストの福音です。ハデスとは死者の国です。ですから、キリスト教会はキリストの福音という鍵によって、ハデスつまり死者の国から人を天国に救い出すのです。18章では戒規の文脈で天国の鍵について語られますが、16章はハデスに対する勝利の文脈つまり伝道・救いの宣言の文脈で天国の鍵が語られています。

「ハデスの門もそれには打ち勝てません。
わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(16:18b、19)

 福音とは何か。少し長い表現でいえば。

「15:2この福音によって救われるのです。 15:3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 15:4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、」(1コリント15章) 

もう少し短く福音とは、

「神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰」(使徒20:21)

です。つまり、神に背を向けていた自分の罪を認めて神に向き直り、主イエスを救い主として信じることです。
 天国の鍵を用いるとは、教会が「悔い改めてイエスを信じなさい」と伝えて、「はい。悔い改めてイエス様を『いける神の御子キリストです』と信じます」という人には、「あなたは罪赦されました」と宣言して洗礼を授けることであり、「いいえ、悔い改めません、イエス様はただの人間だと思います」という人には、「それではあなたは滅びます。」と宣言することです。教会には、そのようにきわめて重大な任務がイエス様によって与えられているのです。
 それは人のこの世における人生だけでなく、その人の永遠の運命を左右する重大な任務です。祈り深く、注意深く、決して傲慢にならず、さりとて、人の顔を恐れないで神様を恐れてその務めを果たさねばなりません。

結び
 「あなたは生ける神の御子キリストです」という信仰告白によって、人は永遠の命を得て、天の御国に入ることができます。この信仰告白という岩盤の上に教会は立ち、この福音を宣べ伝えてゆくのです。