苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖霊と聖書  (聖霊について その5)

マタイ5:18、ヨハネ14:26、2テモテ3:16、2ペテロ1:21、3:15,16

 今回は、聖霊と聖書というテーマでみことばを解き明かします。先ほど聖書朗読の前に、「聖書を啓示してくださった御霊ご自身が、いま、この聖書を開いている私たちがこれを正しく理解できるように助けてください。」とお祈りしました。聖霊の豊かなお働きの中のひとつは、神のみこころを私たちに開き示してくださること、つまり、啓示ということです。


1 キリストの教えと聖霊の啓示

 まずヨハネ福音書14,15,16節でイエス様が教えてくださった聖霊に関する箇所から学びましょう。主イエスはご自分が世を去って後に、天の父に願って、かわりに助け主として聖霊を送ってくださると約束なさいました。

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」ヨハネ14:26

 イエス様が世を去ってしまわれたならば、自分たちはどのようにして神のみこころを知ることができるのだろうと弟子たちは不安に思っていました。そういう弟子たちに対して主イエスは、聖霊は「すべてのことを教え」「イエス様が話したすべてのことを思い起こさせます」とおっしゃいました。だから、わたしが世を去って父のみもとに行っても大丈夫だよとイエス様はおっしゃるのです。
 一つ大事な点があります。それは、聖霊が教えてくださることというのは、聖霊独自のことではなく、イエス様が弟子たちにお教えになったことだという事実です。歴史を振り返ると、ときどき異端や異端的と呼ばれる人々が「イエス様は地上に三年間しかいらっしゃらなかったから、十分にお教えにならなかったことですが、わたしは聖霊によって新たな啓示を与えられたのです」などと宣伝してきました。今日でもそういうグループがあります。
けれども、イエス様が「聖霊はわたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせる」とおっしゃいましたから、新しい福音のようにして聖書外の教えをうんぬんする人がいたら、それはまちがいだと見分けることができます。

 イエス様はまた、聖霊は真理の御霊と呼ばれて、イエス様が教えた「教え」を教えてくださるばかりでなく、イエス様ご自身について証言をするのだとおっしゃいます。

15:26 「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」

 聖霊(御霊)の証言の中心は、イエスこそ神の御子キリストであるという事実をあかしすることなのです。それがお働きの中心・焦点であることをしっかりとわきまえておきましょう。聖霊はご自分のことを派手に現わすことはなさらずに、イエス・キリスト様のことを明らかになさるのです。聖霊というお方は三位一体の神の三番目のご人格でいらっしゃいますから、とても大切なお方であることはいうまでもないことですが、聖霊は「聖霊の宣伝」をするのではなく、イエス・キリストを明らかになさるのです。ですから、もしイエス・キリストをないがしろにして「聖霊!「聖霊!」と宣伝している人々がいるとしたら、その人たちが聖霊に満たされているかどうか疑問です。あるいは別の霊に満たされている可能性があります。聖霊に満たされた人は「イエスは神の御子キリストです」と告白させるのです。私たちが、イエス様が神の御子キリストであると信じることができるのは、聖霊によることなのです。

 もうひとつ聖霊が教えてくださることとして、未来のことことも含まれると、イエス様は次のようにおっしゃいました。

16:13 「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」

 このことについても、単なるナントカダムスの大預言とかいうのとちがって、キリストを中心とした未来のことである点に注意しておきましょう。聖霊は、世の終わりにイエス様が再び来られて世界をさばき、新しい天と新しい地を創造してくださることをも語るのです。

 以上のように、イエス様が聖霊の啓示のお働きについて教えられたことは、
第一に、イエス様の教えと聖霊の語られることは一致しているということです。イエス様の教えからはなれた聖霊のことばはありえません。
第二に、聖霊聖霊のことを宣伝するのではなく、ナザレのイエスこそ生ける神の御子キリストであるということを明らかにすること、それが啓示の中心テーマなのだということです。
第三に、聖霊はそれに加えてキリストの再臨をも教えてくださるのです。


2 聖書の霊感

 弟子たちは、そういう神様の啓示をイエス様から聞かされました。しかし、弟子たちがまた旧約の預言者たちが啓示の出来事が起こったその場で聞かされたことは、正確に後の時代の神の民に伝達されることができるでしょうか。私たちの記憶というのは、実際あいまいなものではないでしょうか。四十代半ば頃から、二階から一階になにか物を取りに来たというのに、「はて、いったい自分は何をしに一階に降りてきたんだろう?」と首をかしげたりして、つくづく記憶のあいまいさということを実感します。伝言ゲームというのをしたことがあるでしょう。わずか10人の人から人へと伝えられていくうちに、話の内容がまるでちがってしまうというのを面白がるゲームです。では、どのようにしたら伝言ゲームで最初から最後までまちがいなく伝えられるでしょう。それは、伝言を書いた紙を一番から最後まで手渡していくことです。
 人間の記憶に任せておいたら、預言者や弟子たちに語られた神のことばは正しく後の時代の神の民に伝わらなくなってしまいます。ですから、神様はある人々を聖書記者としてお選びになり、聖霊によって彼らを導いて、神のみことばの真理を文書に記録することになさいました。この神のわざを聖書の霊感といいます。聖書の霊感にかんするみことばを二つ取り上げておきましょう。

2テモテ3:16「 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」
2ペテロ1:21 「なぜなら、預は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」

 聖霊に動かされた人たちが、聖書のみことばを文書として記録したのです。「霊感」ということばは、どうも私たちにはぴんと来ません。単なるひらめきとか、無意識状態になった人が、「お筆先」のようになって筆記したかのように誤解する人がいるかもしれませんが、そういうものではありません。先々週、「御霊に満たされる」とは、そういう知性が麻痺したことではなく、逆に、ぼんやりとしていた知性がはっきりと目覚めて悟るようになり、賢くなることなんだとエペソ書から学びました。聖書の諸文書を霊感された預言者や弟子たちは、明らかに知性が目覚めた状態で書いています。そういう状態で、弟子たちはそれぞれの人格・賜物・おかれた状況の中にあって、誤りなく、神のみこころを文字として書き記したのです。
 霊感というのは、神の御旨が漠然とした思想として与えられたことではありません。そうではなく、神の御旨は、言語として、文字として霊感は与えられました。それで言語霊感といいます。そのことは、イエス様がはっきりとお教えになりました。

マタイ5:18 「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」

 イエス様は、律法の一点一画までも神の言葉なんだよ、と私たちに教えてくださっています。つまり、イエス様は言語霊感を主張なさいました。私たちはイエス様の弟子として言語霊感を信じる者です。だからこそ、神学校では聖書を正確に読み取るために、ヘブル語やギリシャ語を勉強して、一字一句をおろそかにせず釈義するという訓練をしているのです。そして、実際に、注意深く読めば読むほど、聖書というのは一点一画おろそかにせず書かれているのだなあという感動が深くなります。


3 旧新約聖書が神のことばであること

 最後に旧新約聖書全体が神のことばであることについて、です。イエス様は、先ほど紹介したマタイ5章18節で、
「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」
とおっしゃったように、旧約聖書の一点一画までも神のことばであるとお教えになりました。ですから、イエス様はサタンとの論争においても、あるいはパリサイ人やサドカイ人との論争においても、旧約聖書のごく小さな一句をも論拠として相手をしばしば論破なさいました。「〜と書いてある」「〜と書かれているのがどういう意味か学んできなさい」というふうにイエス様はおっしゃって、全幅の信頼を旧約聖書に置いていらっしゃることを明らかにされました。「聖書はすべて神の霊感によるもの」であるという認識を、イエス様と使徒パウロは共有しているのです。
 では、新約聖書におけるパウロの手紙などはどうでしょうか?次のみことばをごらんください。
2ペテロ3:15,16 「また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」
 「聖書の他の箇所の場合もそうするのですが」ということばに注目してください。ここで『聖書』と呼ばれているのは旧約聖書のことです。初代教会の時代において、すでに使徒の手紙は、旧約聖書と同等の権威を持つものとして受け入れられていたということがわかります。使徒たちは、主イエスが特別にお選びになった神のみことばの器でした。旧約聖書が一点一画まで神のことばであると同じく、新約聖書もまた一点一画まで神のことばなのです。


むすび
 聖霊は、預言者たち、使徒たち、弟子たちをお用いになって、旧新約聖書66巻を文書として啓示し、保存することによって、今日にいたるまで真理が曲げられ、誤解されることがないようにしてくださったのです。
 私たちは、神のことばである聖書をいま手に持つことが許されています。こんな贅沢なことは、二千年の教会の歴史の中で例外的なことで、最近になって実現したことなのです。宝の持ち腐れにならないように、日々みことばに親しんで、みことばに生きていき、みことばを証していくものとなりましょう。