苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神を見るには ―キリストの預言職―

ヨハネ1:18
2012年3月18日 小海主日礼拝

 「神がいるというならば、神を見せてください。」大昔からそのように言う人がいます。神をどのようにして見ることができるでしょうか?


1. キリスト、油注がれた者


 キリストというお名前は、「油注がれた者」という意味のことばメシヤのギリシャ語訳です。油を注ぐという儀式が、その昔イスラエルでは、王として任じられるとき、祭司として任じられるとき、そして預言者として任じられるときに行なわれました。油は聖霊の象徴です。神様が、王として、あるいは祭司として、あるいは預言者としての職務任じるときに、その人が務めを果たすために必要な権威と知恵と力とを御霊によって与えてくださったことを象徴したのです。
 イエスさまがキリストと呼ばれるのは、イエス様は、王・祭司・預言者としての職務を、救い主として果たされるからです。今日は、その中のキリスト・イエス様の預言の働きについて学びます。
 預言という字は、「ノストラダムスの大予言」でいうように「予め言う」とは書かないで、「言を預ける」「預けられた言」と書きます。預言者というのは、神様にことばを預けられた者という意味で、そのように呼ばれるのです。未来のことであろうと、過去のことであろうと、神から告げられた言を預かる人を預言者といいます。旧約聖書にはモーセ、イザヤ、エレミヤ、エリヤなどといった預言者たちが活躍しました。また、新約聖書には旧約時代最後の預言者として洗礼者ヨハネが出てきます。
 さてイエス様は神の御子ですから、モーセやイザヤなど人間から選び取られた預言者たちを越えたお方ですが、神さまと神様のみこころを私たち人間に伝えるという職務を果たしてくださるという意味で、預言職をになっていらっしゃいます。そういうわけで、ヨハネ1章18節には、次のようにあります。
「1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」


2.キリストのみが神を見たお方である

ところで、ヨハネ福音書は「いまだかつて神を見たものはいない。」と告げています。旧約時代にも先ほど申し上げたように、多くの預言者たちがいました。とくに旧約時代にあってもモーセは別格の預言者で、神は顔と顔とを会わせて彼に啓示を授けたとされています(出エジプト33:11)。しかし、ヨハネ福音書はもちろんそんなことは百も承知の上で、あえて「いまだかつて神を見たものはいない」というのです。なぜでしょうか。
ヨハネ福音書は、「神を見る」ということばでもって、「神のことばを聞いた」とか、「神を知った」というだけでは表現できない「完全な意味で神を知る」ことを表現しようとしたのです。
有限な人間はどんな霊的にも道徳的にもすぐれた人であっても、神を完全に知ることはできません。旧約の聖徒たちのなかにも「神を見た」という表現がいくつか出てきます。ヤコブはヤボクの渡しで主と相撲をとり、モーセは荒野の柴のところで主にお会いし、イザヤは神殿で主の栄光を見たことなどが出てきます。ですが、彼らは「神を見た」とき、非常な恐怖におののいています。ヤコブは、こういいます。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」(創世記32:30)。 「モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。」(出エジプト3:6)。預言者イザヤも神殿で栄光の主の臨在に触れて言いました。「ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の【主】である王を、この目で見たのだから。」(イザヤ6:5)このように、罪ある被造物にすぎない人間が、聖なる神を見ることは恐るべきことなのです。被造物である我々にとって、聖なる神の御顔を見ることは、死を意味します。
それに対して、御子イエスにとってはまったくちがいます。「父のふところにおられるひとり子の神」とあるではありませんか。かぎりなく力強く、かぎりなくやさしい父のふところに抱かれている子です。そこには恐怖などひとかけらもありません。平安・喜び・安心感のみです。御子は御父の愛を一身に受けていらっしゃるのです。父の懐にいる子は、その父の胸の暖かさ、父の胸の鼓動さえも知っているのです。御子が父なる神を見たというのは、そういうことです。そういう意味で、御子のみが御父を完全に知っていらっしゃるのです。完全に知っていらっしゃるからこそ私たちに、御父がどのようなお方であるかを教えてくださることができます。そういう意味で、御子は「父を見た」のです。次のみことばはヨハネ1章18節と同じ趣旨で次のようにも言っています。
「だれも父を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。」ヨハネ6:46

3.キリストのうちには神がいます

次に「ひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」といっているのはどういうことでしょうか。イエス様は、父なる神を三つの方法で説き明かされました。第一には、ことばをもってイエス様は私たちに御父がどのようなお方であるかを教えてくださいました。御子のことばは時にやさしく、時にきびしく、常にいのちと威厳ときよさに満ちていました。第二に、イエス様はそのわざをもって、御父がどのようなお方であるかを教えてくださいました。第三に、イエス様はそのご人格をもって、御父がどのようなお方であるかを教えてくださいました。このことをひとつずつ説明しましょう。


第一は、主イエスはことばで父と父のみこころを説き明かされました。山上の説教を読んで、私たちは御子イエス様に結ばれた者であるがゆえに、私たち自身も天の聖なる神様を「父よ」とお呼びしてよいのだとわかります。その天の父が、私たちを愛していてくださること、いつでも見守っていてくださるということ、父よと呼び求めるならば恵をもってこたえようと待ち構えていてくださることを知りました。たとえば、マタイ6:25、26

「6:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。


たしかに旧約時代にあっても、預言者たちは恐るべき神について告げましたが、イエス様が来られて私たちはその恐るべき神が、同時に、愛に満ちた父であられることを知るのです。


第二に、御子は、そのわざによって、神がどのようなお方であるかを私たちに教えられました。ガリラヤ湖の嵐に「黙れ、静まれ」とお命じになって嵐を静めることによって、イエス様はご自身が神の御子であり、神は万物を創造し支配する偉大なお方であることを示されました。
そしてイエス様は、ゴルゴタの丘で、自ら進んで十字架にかかって私たちの罪の贖いをなしとげるというみわざによって、神様のきよさ、神様の正しさ、そして神が愛であられることを明らかに示されたのです。またその後三日目によみがえって、神は死からさえもいのちを造り出す偉大なお方であることを教えてくださいました。


そして第三に、御子はその人格そのものによって、父なる神がどのようなお方でいらっしゃるかということを明らかにされました。父と御子は瓜二つなので、御子を見るとき私たちは御父を見るのです。 イエス様は明日十字架につくという前夜、弟子たちと夕べの食卓を囲みました。そのときに、イエス様がおっしゃいました。

14:6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」
14:8 ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」

 イエス様を見た者は父を見たのです。イエス様は、父なる神と瓜二つのお方ですから、私たちはイエスのご人格に触れるとき、父なる神はこのようなお方なのだなあと知るわけです。イエス様のご人格について、どのようなお方であると私たちは表現することができるでしょうか。直弟子ヨハネは「私たちはこの方を見た。この方は恵みとまことに満ちておられた。」と書いています。三年間寝食をともにして暮らした日々を思い起こし、ああ、主イエスは実に恵とまことに満ちておられた!と実感しているのです。恵みとは、それを受けるに値しない者に注がれる、神からの不当な祝福のことです。まこととは、神が真実なお方であられて、その約束されたことをかならず成就なさるということです。御子イエスは、そうした神の恵みとまことに満ちておられた、とヨハネは証言します。
 また1コリント13章の愛のところにイエス様というお名前を入れれば、主イエスのご人格を知ることができるでしょうか。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」御子イエスの完全な愛のご人格は、御父がどのようなお方であるかをはっきりと示しています。
 あるいは御霊の実のみことばも主イエスと父なる神がどのようなお方であるかを示しています。というのは御霊とは、御子の御霊であり、かつ父なる神の御霊だからです。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」こうしたすばらしい品性のはキリストの品性であり、その源泉は実に神ご自身なのです。


結び
 「1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」
 以上のようにして、御子は預言の務めを果たされました。「神がいるというならば、神を見せてください。」という方には、福音書をじっくりと味わって、イエス様を見ることですとお勧めしましょう。そこには、もっとも明瞭に神というお方が現れています。