苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

主の山に備えあり? 主は山で見る? 主は山で見られる?

 創世記22章14節は「主の山に備えあり」ということばで有名である。だが、ヘブル語本文を見ると、「behar YHWH ieraeh」とある。これを普通に訳せば、「主は山で見る」あるいは新改訳2017の脚注にあるように「主の山で主は現れてくださる」となる。では、誰がここを「主の山に備えあり」と訳し始めたのだろう。

 紀元前のLXX(七十人訳)には「主は山で見る」とあり、ウルガタ(405)は「 in monte Dominus videbit(主は山で見る)」とある。 ティンデル(1526)は「 in the mounte will the LORde be sene主は山で見られる」と訳している。ieraehはrahのニファル形だから受け身に訳したのだろう。

   ところが、キングジェームズ訳(1611)は「In the mount of the LORD it shall be seen.」つまり「主の山で、それは見られよう」となっている。ieraehは未完了形だからだろうか。どうやら、このあたりが変わり目のようである。it shall be provided(それは備えられよう)という訳語がキングジェームズ訳の改訂としてEnglish Revised Version(1885)の中に現れている。 

 以上、調べの途中のメモ。