苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

主の山に備えあり?

アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「主の山には備えがある」と言われている。(創世記22:14)

 アブラハムがモリヤの山で愛するひとり子イサクをささげた場面である。「主の山には備えがある」と訳されたのは、「ベハル・アドナイ・イルエ」という有名なフレーズである。だが、「ベハル(山で)・アドナイ(主は)・イルエ」の「イルエ」は「ラアー」つまり「見る」のニファル形・未完了・3人称単数だから、普通に訳せば「主は山で見られる」である。なぜ「主の山に備えあり」と訳したのだろう。アブラハムがひとり子をささげようとしたら、そこにお羊が備えられていたから、その文脈からこんなふうに訳したことはわかるのだが、訳しすぎではないか。「主は山で見られる」と普通に訳せば、主は山で大事な啓示をお与えになるという意味になり、ホレブ山で律法が与えられ、ガリラヤの山上で説教がなされ、大宣教命令も高い山でされたことが思い起こされる。

 今朝、この箇所を読んで、その昔、清水武夫先生が指摘なさるのを聞いたことを思い出したのでメモした次第。むしろ「主は山で現れる」という意味ではないか、と教えてくださった。その清水先生が、この秋、HBIに特講で来てくださることになっている。楽しみ。