苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ほんとうに偶然?

宝くじ

 あなたが近所のコンビニに出かけて、商品を買って、女性店員に「どうぞ」と勧められて宝くじを引いたら三等賞が当たりました。「やった!」と景品をもらって気分がいいでしょう。まあ、たまには当たることはありますからね。次の日、またそのコンビニに出かけて、店員に「どうぞ」と勧められて宝くじを引いたら、今度は二等賞!「へえ、こんな偶然もあるんだ」と驚くでしょう。次の日、またそのコンビニに出かけて品物を買って、レジに行くと店員がにっこり笑って「どうぞ」と勧めるので、三度目くじを引いたら、なんと一等賞が当たったとします。

 あなたは、どう考えるでしょう?「すごい偶然だなあ。」と思うでしょうか。いや『これは偶然じゃない。きっとあの店員さんが、当たりくじだけ入った箱をぼくに差し出してくれたんだろう。なぜ、そんなことをしてくれるんだろう?ぼくに気があるのかな。でも、そんなことしちゃいけないでしょう。』と、嬉しくも心配になるでしょう。到底起こりえない都合の良いことが三度も立て続けに起こったら、それは実際には偶然ではなくて必然だと思うのが、正常な判断力です。

 

偶然でしょうか?

 でも、今の日本社会の中で、到底、偶然とはいえないことを国を挙げて偶然だと言い続けていることがあります。新聞もテレビも学校も、「偶然だ、偶然だ」と主張して、もし誰かが「いや、これは明らかに必然でしょう。計画的でしょう。」というと、「非科学的だ。迷信だ。」とヒステリックに否定していることがあります。

 なんのことだかわかるでしょうか?それはこの自然界の成り立ちについてです。文科省もテレビも新聞も、この宇宙、この自然界、この私たちのからだと心は、知性ある創造主によってでなく偶然にできのだと教えています。

 今、この文章を読んでいるあなたの目は偶然できたのでしょうか?まぶたはあなたが意識しなくても適度な間隔を置いて開いたり閉じたりします。それで目は涙で潤され、渇かないように守られています。これは偶然でしょうか?またまつ毛が目の縁にそって細かく生えていて、目にホコリが入るのを防いでいます。まつ毛がほっぺたに生えないで、目の周囲に生えているのは偶然でしょうか?また、まつ毛は髪の毛とちがって長く伸びることもありませんから、切る必要もありません。髪の毛の毛根の仕組みと区別されていること、これは偶然でしょうか? 瞳孔から光が入りますが、明るい時には光の量を減らし、暗い時には光の量を増やすために虹彩と呼ばれるドーナツ状の絞りが自動で作動します。これは偶然にできたのでしょうか?

 瞳孔から入った光は、水晶体と呼ばれる凸レンズによって反転して、網膜に映し出されて倒立像を結びます。しかも、オートフォーカスです。これは偶然でしょうか?網膜というスクリーンに映し出された像は電気信号に変換する仕組みになっていて、その電気信号が視神経を通って脳に運ばれ、脳では網膜に映った倒立像を正立像に変換して、「見えた」となります。複雑精巧な目は、生物教科書がいうようにほんとうに偶然にできたのでしょうか?誰も意図せず、計画も設計図もなく、私たちの目の精巧な仕組みができたのでしょうか? 

「いや偶然ではない。その設計図は、みな私たちの細胞核の中にあるDNAに記されているのだ。」と科学者はいうでしょう。「では、そのDNAという設計図はどのようにして出来たのですか?」と問えば、「それは進化によるのだ。」と答えます。「では進化の仕組みはなんですか?」と問えば、「それは結局は偶然だ」と答えるのです。何兆の何兆倍の回数、偶然に偶然が重なって「進化」が起きて、そういうことが起こったのだというのです。まるで「進化」という呪文さえ唱えれば、これほど精巧な目が偶然にできたと言えるというのです。これはな正常な判断でしょうか?

 

自然観の歴史

 自然観の歴史を振り返ると、十七世紀まで科学者たちは、神が自然を創造し支配していると信じていました。地動説のコペルニクスも、惑星の運動法則を発見したケプラーも、物理法則は数式で表せることを示したガリレオ・ガリレイも、確率論を発明し物理学や幾何学にも功績のあるパスカルもこの世界を造られた神が実在し、これを治めていると信じていました。彼らは有神論に立つ科学者です。

 しかしフランス革命が起きた十八世紀になると、ある変化が起こりました。十八世紀の神が嫌いな啓蒙主義思想家たちは、確かに神がこの複雑精巧な自然界を創造したのであるが、自然界を創造したあと、神は世界に対して手出しをしないのだと唱えました。つまり、時計工に作られた時計が、時計工の手を離れても動いているように、自然界はそれ自体の法則にしたがって運行していると主張したのです。だから人間は神を無視して、理性の力で文明を築いて行けばよいのだとしたのです。彼らの教えを理神論といいます。啓蒙主義思想家たちは、できたら神を自分たちの思想から排除したいと願っていましたが、創造の事実だけは、認めざるを得なかったのです。

 ところが、十九世紀になると、ダーウィンが現れました。彼はガラパゴス諸島を探検し、島ごとに小鳥のくちばしの形が違うこと、ゾウガメの首の長さや甲羅の形が違うこと、陸イグアナと海イグアナの形態が違うことを観察しました。そして「環境によって生物の形は変化する」という事実を見出したのです。置かれた環境に適応するために、生物種が種の中で変異することは事実です。だからリンゴやミカンや稲や犬などの品種改良が行われます。人間も環境によって、黒人・白人・黄色人種に分かれてきました。でもイヌからネコは生まれないし、サルからヒトは生まれません。ゾウガメがイグアナや小鳥に変化することはありえません。種を越える変異は起こらないのです。

 しかし、ダーウィンは、種内で小さな変異があることを根拠にして、種のワクを越える変異つまり「進化」があったのだと早合点したのです。つまり、魚は長年の間には徐々に変化してイモリになり、イモリは長年徐々に変化してトカゲになり、トカゲは徐々に変化してネズミになり、鳥にもなる。そしてサルは徐々に変化して人間になると空想したのです。進化説はリンゴの品種改良を続ければ、ミカンやジャガイモになるというのと同じく、馬鹿げた仮説です。

 しかし、「偶然によって様々な生物種が出現したことを説明できる」というダーウィンの進化論が発表されると、啓蒙主義思想家たちは熱狂的にこれに飛びつきました。なぜなら、啓蒙思想家たちは「進化論をもちいれば、造り主である神抜きで世界の成り立ちを説明できる」と信じたからです。進化論は無神論を「科学的に」説明するための理論として、大歓迎されたのです。そして、無神論こそ科学的であり、神を持ち出すのは非科学的だと宣伝してきました。ケプラーガリレイパスカルといった超一流の近代天文学・物理学の父たちは神の実在を信じた科学者だったのですが・・・。

 

風向きは変わりつつある

 ダーウィンは進化が実際に起こったとすれば、今後、魚と両生類、爬虫類と鳥類・哺乳類を結ぶ「中間種」の化石が大量に発見されるはずだと予言しました。ところが、今日にいたるまで莫大な化石が発掘されてきましたが、ただの一つの「中間種」も発見されませんでした。かつて「中間種」だと教えられたシーラカンスはただの魚であり、始祖鳥はただの鳥でした。進化論の実情を知る科学者は徐々にそれを暴露しつつあります。

 元東大教授竹内均の訳書に次のようにあります。「シカゴのフィールド博物館の館長デイビッド・ロープは言う、『進化論の立場から生命の歴史を説明する上で、化石がそれを証明してくれると思っている人は多い。さて、ダーウィンが『種の起源』を書いてから120年がたつ今、化石記録に関する研究は大いに進んだ。しかし皮肉なことに、進化論を支持する実例は、まるで出てこないのである。またハーバード大学教授ゲイロード・シンプソンという古脊椎動物学者は「中間種の生物の姿が一切ないことは生命学史上の大ミステリーだ」という』」(『エントロピーの法則Ⅱ』)。

 また京都大学教授で日本昆虫学会会長であった日高敏隆は次のように言っています。「それぞれの種というものは何かはっきりしたワクをもっていて、いかにさまざまな変異が生じても、それらの変異は所詮そのワクからはとび出せないらしいということを意味している。(中略)われわれは二十世紀前半の、つまりこれまでの生物学がわれわれに与えてきた印象とはまったく反対に、種とは変わらないものだという感じを強く受ける。種は進歩、発展を求めて次々と変化していくものであると、生物学では進化ばかりが強調されがちだが、それはむしろまちがっていたようだ。われわれは種の不変性にこそ注目すべきだったのだ。」(『動物の生きる条件』)

 ダーウィンの『種の起源』以来、発掘された膨大な化石について論じた結びとして、マイケル・デントンは言います。「結局のところ、ダーウィンの進化論は、20世紀における天地創造の巨大神話以上のものではない。」(東大教授川島誠一郎訳)

 では、進化論が根拠のない仮説であり、巨大神話であることを気づいた、これらの科学者たちは、どういう態度を取っているでしょうか。彼らは、ただ進化説によってはこの多様にして複雑で精妙に仕組まれた生物たちがどのようにして出現したとは言えないが、神が創造したというところには戻ったら「非科学的だ」と言われてしまうので、頭を抱えているのです。

立ち返るべきところ

 ダーウィンが『種の起源』で進化論を発表したとき、これに飛びついたのは理神論者たちでした。彼らは神の存在を認めたくなかったのですが、巧みに仕組まれた宇宙と自然界を見ると、創造主である神が実在することだけはしぶしぶ認めた人々でした。彼らは、進化論を用いれば、神ぬきで世界のすべてを偶然によって説明することができると期待して、これに飛びついたのです。聖書の教える創造主を否定するために進化論を受け入れたのです。

 しかし、創造主なる神の実在を否定するための進化論は巨大な作り話であることが判明しました。ということは、何を意味しているのでしょうか?それは世界と私たち人類を創造した神が実在するということを意味しているのではありませんか。この複雑精妙な世界は偶然生じたものではなく、偉大な知性を持つ神が、そのみこころによって創造した作品であるということを意味しているのです。

 また、私たち人間は、あるとき物質が偶然生命を得て、それが何兆回もの偶然が重なって出現した単なる知能をもったサルの一種ではなく、神がご自分に似た人格的存在として造られ、神の前に道徳的責任のある存在であることを意味しているのです。

 無神論者がいうように、もし私たちが偶然に偶然が重なって出来上がった細胞の塊にすぎないならば、どんな理屈をこねたとしても、結局、世界も私たちの存在も無意味です。道徳などたまたま出来上がった習慣にすぎません。いっさいが偶然にできたことならば、盗もうが、犯そうが、殺そうが、それがなぜ悪いと言えるでしょう。

 しかし、実際には世界も私たちの存在も偶然ではありません。生ける神が万物を造られました。そして私たち一人ひとりは、このお方の前で価値と責任のある存在なのです。また、私たちは「神のかたちにしたがって」造られた尊いものですから、お互いの存在を尊重して生きるべきなのです。

 

「神は人をご自身のかたちにしたがって創造された。神のかたちにしたがって彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1・27)

 

(苫小牧通信第61号に掲載したものに少々加筆しました)