苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「神の子とする」恵み

 昨日から斎藤五十三先生をお迎えしてHBI春の特別公開講座
テーマは<「神の子とする」恵みー宗教改革信条史における「神の子」概念再考ー>。
 1992年春、結城晋次先生が仕えておられた横浜上ノ町教会でご奉仕に招かれてうかがったとき、大学生だった五十三先生と出会いました。そのときいっしょに行った銭湯で、私が「宮村先生と出会って知った『存在の喜び』とは、実はJ.I.パッカーのいう『神の子の喜び』のことだったのだ。神の子、キリストの共同相続人として、われわれはキリストの苦しみをも相続するのだ。」と力説したということを思い出させてくださいました。
 五十三先生は、「神の子とされたこと」をご自分の人生で味わい、家庭建設で実を結ばれ、ご自身の神学研究のなかで深めて来られたのだなあと感じました。従来「神の子とする」恵みは<義認・神の子とすること・聖化>という救済の恵みの枠の中で扱われてきたのですが、五十三先生は、「神の子とする」ことは、実に、予定‐契約―贖罪-聖化ー終末的完成全体を貫く主題なのだという大切なことを、教えてくださいました。

 近年「神の王国」物語として、聖書における神のご計画を把握するという本が何冊か出て注目されました。それは従来の罪の赦しを中心とする救いの理解の限界、罪から救われた後、どう生きるのかということが見えてこないという問題を解決するための、広い視野を提供する点ですぐれています。しかし、この手の本は広い視野を与えますが、なんというかスカスカの感じがしていました。

 王国は神の御子キリストが王として来られ、十字架と復活によって私たちを罪と死とサタンから救われたことに始まり、そして我々をも神の子たちつまり王国の共同相続人としてくださることで実現しました。また、新天新地で十全な意味で実現します。その共同相続人とされるというのは、今回五十三先生が教えてくださっている「神の子とする」恵みから出てくることです。この中心にある父なる神と御子との人格的な愛の交わり、いのちということがあってこその神の王国です。

 今日、明日は、いよいよ先生の専門の信条学的扱いのなかで、このテーマが深められることになります。楽しみです。従来の説では「神の子とする」恵みはカルヴァンを例外として、ほとんど無視されてきたのだということなのですが、五十三先生は、そんなことはないという主張をなさるようです。
 五十三先生のこの「神の子とする」恵みに関する研究は近々、今年秋でしょうか、本となって出版されるとのことです。楽しみですね。