苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

高校生の頃


 
 「ほんまに神様なんか存在すると思っているの?クリスチャン?それならこの本を読んでみろよ。」そう言って、私はわざわざM君に、『魔女狩り』という中世のキリスト教会がどれほど悪辣なことをしたかが、これでもかこれでもかとばかり書かれた本を貸してやった。高校三年生のことである。幼児期にはキリスト教主義幼稚園に通っていたものの、小学・中学・高校と進むにつれて、私は急速に無神論者・反キリスト教徒になっていった。あの時代、学校でもテレビでも科学的知識がすべてであり、科学にあわないものはみな迷信であるという迷信を植え付けられたように思う。そうして私はまさに「愚か者は心のなかで神はいないと言っている。彼らは腐っており、忌まわしいことを行なっている。」(詩篇十四:一)ということになってしまったのである。
神はいなかったのだろうか。神は沈黙していたのだろうか。いや、目さえ偏見に閉ざされていなければ、一輪の野のゆりにも、人間の緻密なからだの仕組みにも、壮大で精巧な天体の運動にも、創造主からのメッセージを聞き取ることはできたのである。この世界に存在する大小さまざまなものは、とうてい偶然できた姿をしていない。精巧・微妙・緻密なデザインがあり、意図がある。
 先日、教会をはじめて訪ねてくれた小学生たちに、「この家はだれが造りましたか?」と聞けば、「大工さん」と答えた。「この椅子はだれが作りましたか?」と聞けば、「家具屋さん」と答えた。「じゃあ、君たちのことはだれが造ったんですか?」と聞いたら、「おかあさん?・・・いや、神様!」と答えた。無神論に洗脳される前の子どもたちは、ちゃんと知っているのである。

「神の目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」ローマ一:二十

「なんのために生きているんだろう。偶然こうして自分が存在し、偶然この世界もできあがったにすぎないとしたら、生きていることも偶然のことにすぎない。そうしたら、生きている目的なんてあるわけもない。人生なんて、無意味なことにちがいない。」無神論的な考え方は、結局、虚無的な生き方に傾いていってしまった。人生の目的は、せいぜい自分の欲望を満足させること以外にはなにもないのではないか。自己満足のための人生にすぎないならば、なんとむなしいことだろうかと失望した。
 昔、「嗚呼人生不可解」と言って、華厳の滝に飛び込んだ一高生がいたそうだ。もっともなことである。今では、むなしさの果てにマリファナや似非宗教に刺激を求める若者たちがふえている。これまたもっともなことかもしれない。彼らは神なき人生のむなしさに耐えられないのではないか。

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『なんの喜びもない』という年月が近づく前に。」伝道者の書十二:一
(通信小海103号2002年5月号に加筆)