苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神が存在するならなぜ?

 映画「神は死んだのか」の三回目のプレゼンで青年は言います。
 「無神論者は、『もし神が全能かつ正義であるならば、どうしてこの世には多くの罪が満ちているのか?神が全能者であるならば、罪を無くすことができるはずではないか』と主張します。
 この問いに対してはこう答えたい。罪は、神が人をロボットではなく自由意志ある道徳的存在として造られたことと関係しています。人間は、その自由意志を誤用して罪を犯します。しかし、後の日に、神は一人一人の罪をさばき、決着をつけ、ご自分が正義の審判者であることを表します。」
 無神論者の哲学教授は、「戦争やさまざまの罪を放置しておいて、最後に裁くというのでは、全能の神と言えるのか?」と食ってかかります。青年は「教授もクラスでは学生にレポートを出させ、学生が途中いろいろ間違えながら学んで行き、最後に成績をつけるではありませんか。それは不当なことでしょうか?」と応じます。
 さらに青年は言います。「そもそも、教授が言うように、創造者はおらず、いっさいが無から偶然生じたのであれば、石ころもミミズも人間もある物質が偶然に集積した存在にすぎません。それならば、善悪を論じること自体、無意味です。」
 青年のいう通り、もし創造主が存在せず、従って世界のすべてが偶然生じたとするならば、世界にはなんの意味もなく、人生にも何の意味もありません。車で石ころを踏みつぶすことも、ミミズを踏みつぶすことも、人を踏みつぶすことも、何の違いもありません。無神論唯物論から出る結論は、いっさいは無意味だということです。
 しかし、現実には、私たちは世の中で行なわれている悪に憤りをおぼえたり、自分自身、罪を犯しては後悔したり、恥じて隠したりするものです。善と悪とがあることを私たちは知っているのです。世界が単なる偶然の集積した物質のかたまりにすぎないならば、こんなことはありえません。「神がいるならなぜこんな罪が・・・」と憤ることができるのは、実は、私たちの住むこの世界が、正義の神によって創造された世界であるからにほかなりません。