聖書釈義とは聖書各巻の記者が最初の読者に伝えようと意図したことのみを読み取ることなのだという態度は、啓示を否定したヨハンネス・ガープラーという人物が提唱したものだそうです。啓蒙主義的理性の枠組みで言えば、当然、そういうことになります。
しかし、その枠組みは「旧新約聖書66巻は神のことばである」という信仰告白にもとることです。聖書全巻の著者である聖霊を無視することであるからです。でも、そのことに気づかずにいる学者がほとんどではないかなあ、と感じています。そういう啓蒙主義的・自然主義的前提で論文を書かなければ、現代の聖書学の土俵に上がれないからです。
私はむしろそういう啓蒙主義的な色眼鏡ができる前の、聖書全巻が神の言葉であると信じた時代の聖書読みの人たちの書いたものに関心があります。それが、主イエスの聖書観ですから。