1.女性の短髪の件から読み取られる普遍的規範
ポストモダンの現代は、しきりに「みんな違ってみんないい」と多様性が異常に強調される相対主義の時代である。その風潮の影響を受けて聖書解釈においても、聖書の記述を何でもかんでも当時の文化・歴史現象として相対化し、そこに規範性はないとする人々がいる。
この件で決まって取り上げられる聖書箇所はコリント教会における女性の短髪とかぶりものの問題である。
「祈をしたり預言をしたりする時、かしらにおおいをかけない女は、そのかしらをはずかしめる者である。それは、髪をそったのとまったく同じだからである。もし女がおおいをかけないなら、髪を切ってしまうがよい。髪を切ったりそったりするのが、女にとって恥ずべきことであるなら、おおいをかけるべきである。」(1コリント11:5,6)
被り物の件はとりあえず、ここでは措いといて、女性の短髪の件だけ触れておく。当時、女神アフローディテーの神殿に仕える神殿娼婦たちは髪を短く刈り込んでいたそうである。そういうギリシャ文化の習俗の中では、敬虔なキリスト者女性が短髪にしていることは相応しいことではなかった。したがって、短髪の神殿娼婦のいない文化においては、この命令はそのままでは意味がないということである。ここまでは、その通りである。
文化相対主義者は、この個所は現代においては何も意味がないから、公同の礼拝にどんな服装や髪型をして出席しようとよいのだと言いたがるのだが、それは違う。この個所から読み取るべき普遍的規範がある。それは、当該文化・社会における社会通念において淫らとされるような服装や髪型をして、キリスト者が教会の礼拝に出席するのは不適切であるということである。
2.聖書解釈の三つの心得
むかし、清水武夫先生がある神学者のことばを引いて、聖書解釈にはsituational(状況をわきまえる)、normative(規範性をわきまえる)、existential(実存的であること)三つの側面が重要であると教えてくださった。
私は大学時代にキェルケゴールを何冊か読んだり、敬虔主義の伝統でディボーションを大事にしていたので、existential(実存的であること)な聖書の読み方に偏っていた面があったかもしれない。また、現代の文化・歴史相対主義者は明らかにsituational(状況をわきまえる)に偏ってしまって、聖書を当時の文化との類似性からのみ解釈する傾向が強いために神のことばとしての規範性が読み取れなくなっている。
上の古代コリントにおける女性の短髪の件からは、第一に状況的な読みによって、コリント教会への命令をそのまま現代日本の教会には適用してはならないことがわかった。第二に、規範的な読みによって、当該文化・社会における社会通念において淫らとされるような服装や髪型をして、キリスト者が教会の礼拝に出席するのは不適切であるということがわかった。そして第三に、実存的な読みによって、私自身、積極的にいえば、聖なる神の前に出るにふさわしい身だしなみということをもって、礼拝には出席しようということである。