苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書の神言性と人言性と聖書解釈

聖書という書物の解釈の根本的原理について考えてきたことをメモします。

 書物というものは、どんな書物であれ、その書物にふさわしい読み方で読むときに、適切な解釈ができるものです。大学受験のための現代文参考書を見ても、文章のジャンルということでいえば、説明文の読み取り方、小説の読み取り方、詩の読み取り方、随筆の読み取り方にはそれぞれふさわしい方法があると教えられています。聖書の解釈も、歴史書福音書、書簡、詩歌、黙示文学などジャンルに相応しい読み方があります。字義的な解釈というのは、ジャンルを踏まえての字義的解釈でなければ、愚かしい誤読になってしまいます。

 ジャンルだけのことでなく、その書物のもっている基本的性質ということについてもそうです。聖書は、聖霊が、それぞれの巻の記者を導いて記させたものですから、神のことばとしての性質(神言性)と人のことばとしての性質(人言性)を兼ね備えています。人言性ゆえに、それぞれの記者の個性・ジャンル・記者の置かれた書かれた状況、文化的・言語的背景が、それぞれの巻には反映しています。しかし、神言性ゆえに、その巻は神のことばとして読まれなければなりません。具体的には、旧新約66巻全体を啓示された神がおられるのですから、66巻全体の文脈の中で解釈されなければなりません。

 こういう観点から考えると、17世紀の正統主義時代の聖書の読み方は神言性に偏っていたという風に見えます。つまり、各巻の個性をほとんど無視して、聖句を神学体系を構築するためのプルーフテキストのように用いてしまう傾向が強いということです。プルーフテキストもその置かれた文脈をわきまえていればよいのですが、時として文脈から切り取られたものである場合もあります。四福音書の調和という発想は良くも悪くも神言性を前提とした聖書の読み方です。
 他方、18世紀以降のいわゆる近代聖書学の聖書解釈は人言性に偏っていると思います。つまり、聖書の各巻を書かれた当時の文化の色眼鏡をかけて読み、文化現象に還元したいという傾向が強いということです。ブルトマンのような新約学者たちはギリシャ文化的背景の色眼鏡をかけて新約聖書を解釈しようとしましたが、ここ40年ほどサンダース以降のNPPの流行は第二神殿期のユダヤ教的背景の色眼鏡をかけて新約聖書を解釈しています。まるでパウロユダヤ教の教師のままで、キリストによって新生したことを忘れてしまったような解釈をしています。

 聖書の神言性と人言性を二つながらわきまえた16世紀の宗教改革者の聖書解釈、古代教父とくにエイレナイオスたちの聖書解釈に、今、もっと学ぶべきであると私は考えています。前提がまちがっていたら、どんなに詳しく論じたとしても、正しい解釈ができるはずはないからです。