苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

トマスがほかの弟子たちと一緒にいなかったのは

 主イエスが復活された日の夕方、10人の弟子たちはユダヤ当局のイエス残党狩りを恐れて隠れ家の鍵を閉めていたが、彼らの真ん中に主イエスが現れてくださった。シャローム!とおっしゃって、彼らに福音宣教の使命とととも聖霊を与えてくださった。ところが、間の悪いことにトマスは、このとき不在だった。(ヨハネ福音書20章19‐31節)

 なぜトマスひとり、ほかの弟子たちと一緒にいなかったのだろうか?手がかりとなるかなあと思われるのは、主イエスがラザロが死んだという知らせを聞いたとき、「ラザロは死にました。あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」とおっしゃったときに、彼がいささか唐突に「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」と言った記事(ヨハネ11:14‐16)である。なぜトマスはこんなことを言ったのだろうか。おそらくユダヤ当局のイエスに対する敵意があからさまになってきている状況を思って、エルサレムに近づくことは、もしかすると死ぬことを意味することかもしれないと考えたからであろう。しかし、ほかの弟子たちはこの段階でそんなことは考えていなかったようだから、トマスはいささかペシミスティックで思い込み激しい殉教志願者タイプの弟子だったのではないかと感じられる。

 トマスがそういう人物であったとすると、ゲツセマネに主と一緒に行った三人の弟子たちがイエスを捨てて逃げてしまったこと、しかも、弟子団の筆頭格と自負していたペテロが三度も主を拒んでしまった後、弟子たちが隠れ家でカギをかけて震えているのを見て、少しほかの弟子たちと距離を取ったのではないかと思われてくる。トマスには、『ほかの弟子たちは何をいまさら死を恐れているのか。』という思いがあったのではなかろうか。そうして、独りになって祈っていたのではないだろうか。ところが、主イエスはそういう孤高の殉教志願者トマスのところにではなく、隠れ家で臆病に震えているほかの10人の弟子たちの真ん中に現れたのだった。

 「私たちは主を見た。幽霊ではない。まぎれもなく、復活された主イエスだった。」と顔を輝かせていう弟子たちを見て、トマスはどれほど悔しかったことだろう。どうして自分のところではなく、臆病な連中の中に主イエスは現れられたのだろう、と考えたことだろう。そんな気持ちが、彼に、「その手の傷跡に指を云々・・・」という暴言めいたことまで言わせたのだった。

 その日から一週間、彼は、もう二度とは来ない機会をのがしてしまったのかもしれない?と不安に思ったことだろう。トマスは次の週の初めの日はほかの弟子たちとともにいた。そして、そこで主にお目にかかることができたのだった。主は彼が一週間前に口にしたことばを聞いておられて、彼に「君が信じるために必要なら、手の傷に指を、わきの傷に手を・・・」とまでおっしゃられた。

 主イエスが弱い弟子たちの交わりの中に現れたことに、キリスト教とは孤高の修行者や研究室の学者の信仰ではなく、神の家族の交わりのうちにある信仰なのだということを教えられる。

「私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」1ヨハネ1章3節