苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

世界観と聖書翻訳ー「トーフーワボーフー」の訳語問題 (訂正を加えました)

創世記1章2節における「トーフーワボーフー」の訳語は二つに傾向がわかれている。

口語訳、

地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。 

新改訳第二版

地はかたちがなく何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

新改訳第三版

地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

新改訳2017

地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。

 

口語訳

新共同訳、聖書協会共同訳

地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

 口語訳、新改訳は、「かたちがなく何もない」「茫漠として何もない」と訳すが、新共同訳、聖書協会共同訳は「混沌として」と訳している。ぱっと見たところ、同じようなものではないかという印象を素人としては持ってしまうのだが、大学生時代、聖書研究会顧問としてお世話になったT先生はたびたびこの「トーフーワボーフー」は「かたちがなくなにもなかった」が正しく、「混沌」は間違いだと力説されていた。確かにBDBの辞書を見て見れば、トーフーにはformlessness, confusion, unreality, emptinessという訳語がでており、ボーフーにはemptinessという訳語が出ているから、普通に訳せば「かたちがなく何もない」となる。「茫漠として何もない」という口語訳、新改訳が正解である。

 口語訳、新改訳は、「かたちがなく何もない」「茫漠として何もない」と訳すが、新共同訳、聖書協会共同訳は「混沌として」と訳している。ぱっと見たところ、同じようなものではないかという印象を素人としては持ってしまうのだが、大学生時代、聖書研究会顧問としてお世話になった津村俊夫先生はたびたびこの「トーフーワボーフー」は「かたちがなくなにもなかった」が正しく、「混沌」は間違いだと力説されていた。確かにBDBの辞書を見て見れば、トーフーにはformlessness, confusion, unreality, emptinessという訳語がでており、ボーフーにはemptinessという訳語が出ているから、普通に訳せば「かたちがなく何もない」となる。「茫漠として何もない」という口語訳、新改訳が正解である。津村先生の「創世記一章と二章における地と水について」という論文で「創造された地の最初の状態をしている。その地とは、植物も動物もなく人も住んでいない『裸の状態』の地である」「秩序に対立する『混沌』ではなく、『不毛な、人の住んでいない』何もないところの状態であった地の状態をさしているのである」と書かれている。では、津村先生が「無からの創造」を否定しているのかというと、そんなことはない。同じ論文で、「神が『全てのもの』の創造者であることは、1章1節の『天と地』というメリスムスによって冒頭で主張されている事柄であって、1章2節に基づく『無からの創造』の『無』の解釈に依存しているのではない。」とある。  

 では、なぜ新共同訳(当時、聖書協会共同訳はなかった)は「混沌」と訳していて、それを先生は批判されたのか。学生時代の対話の中では、オリエントの諸神話やギリシャ神話の創世神話が話題になったと記憶するが、そこには共通して「混沌が克服されて創造がなされた」というパタンがあるということで、それを創世記1章2節に読み込んで、新共同訳はここを「混沌」という訳語を当てたことが問題だとおっしゃっていたような、気がする(「気がする」では心もとないが、仕方ない)。そして、数年前に汎バビロン主義ということばを知って、少しばかりオリエントの創世神話を具体的に見て、なるほど19世紀の汎バビロン主義の反映が、「混沌」という訳語に現れているからなのだろうと少し勉強して私は理解するようになった。

 酒飲みが、「今日は天気がよくて気分がいいから酒を飲もう」といい、「今日は雨降りでくさくさするから酒を飲もう」といい、「今日は雪が降るから雪見酒だな」というように、「主義(イズム)」というものはなんでもかんでもその色眼鏡で対象を見てしまうものである。アルコール中毒は英語でアルカホリズムというではないか。ドーイウェルトに言わせれば、主義(イズム)とは思想的偶像崇拝である。汎バビロン主義というのは、オリエント世界の文化現象は何でもかんでもバビロンから出ているという色眼鏡で見てしまうのである。

 バビロンの創世神話にエヌマエリシュというのがある。汎バビロン主義の学者は、聖書の創世記の創造の記事の背景にはエヌマエリシュがあると読みこんだのである。著名が学者たちがそう言って、学会の定説だ、常識だといわれると、そうなのかなあと思うだろう。新共同訳、聖書協会共同訳の系譜の翻訳者たちは、そう思ったのであろうと私は推測する

 だが、実際にエヌマエリシュの創世神話を読んでみると、幽霊の正体見たり枯れ尾花なのである。今は便利な時代で、ウィキペディアでエヌマエリシュの創世神話を英訳全文を読むことができる。 Enūma Eliš - Wikipedia

 ウィキペディアによる内容要約は次のとおり。

冒頭で、真水を司るアプスー 、塩水を司るティアマト、そしてその息子で霧を司るムンムといった、原初の神が登場する。アプスーとティアマトの交合から、ラハムとラフム、アンシャルとキシャル、アヌ、その子エアとその兄弟たちなど、さまざまな神々が生まれた。神々は非常に騒がしかったため、アプスーとティアマトは不愉快に思った。アプスーは神々を滅ぼそうと企ててティアマトに提案する。

「彼らのふるまいに私は我慢ができない。私は昼は休めず、夜は眠れない。彼らの騒ぎをやめさせるために、彼らを滅ぼしたい。そして、私たちのために静寂が支配するように、(最後に)私たちが眠ることができるように」(一・三七四〇)

ティアマトは、「夫にむかってわめきはじめた。苦しんで叫んだ……『なんですって! 私たちが創ったものをみずから滅ぼすんですって! たしかに、彼らの行ないは不快ですけれど、我慢して優しくしてあげましょうよ』」(一・四一―四六)。

と、反対される。アプスーはムンムの同意を受けて計画を実行しようとするが、それを悟ったエアは魔法でアプスーを眠らせて殺し、ムンムを監禁した。

エアはアプスーの体の上に自らの神殿エアブズを建設し、妃のダムキタとの間にマルドゥクをもうける。エアよりも優れたマルドゥクの誕生を喜んだアヌにより贈られた4つの風で遊ぶマルドゥクにより、ティアマトの塩水の体はかき乱され、ティアマトの中に棲む神々は眠れなくなった。

ティアマトはこれらの神々の説得に応じ、アプスーの死への復讐を企てた。ティアマトは力を強め、これらの神々も力を合わせた。ティアマトは戦いに勝利するため、2番目の夫キングーに天命の書板を与えて最高神の地位に据え、さらに11の合成獣の軍団を創り出した。最終的にマルドゥクがティアマトに勝利し、ティアマトの遺骸を用いて世界を形成する。

 このどこが創世記1章の創造記事と似ているだろう?はっきり言って、全然似ていないではないか。

 まず神の数が違う。エヌマエリシュでは、淡水の男神アプスーと塩水と混沌の女神ティアマトがいて、この夫婦が諸々の神々、怪物を生み出し、さまざまの神々が登場し争うが、聖書にご自分を明らかにされた天地の創造主は、唯一のお方である。エヌマエリシュは創世記ではなく、むしろ日本の古事記に似ている。

 次に、神の永遠性がちがう。エヌマエリシュ神話では、名は付けられていないが天と地が最初から存在しており、そこにアプスーという淡水の男神、ティアマトという塩水と混沌の女神が生まれて来て、この男神と女神とが交わって、さまざまな神々、怪物が生み出されてくる。他方、聖書では神は、世界が存在する前、永遠のはじめから存在する。だから神は「天と地」すなわち万物を創造した。それを神学のことばでは教会は長年にわたって「無からの創造」と表現してきた。

 さらに、創造の方法がちがう。エヌマエリシュでは世界創造は二段階あって、第一段階は淡水の男神アプスーは混沌と塩水の女神ティアマトと性行為によって、神々や怪物たちを生み出したというのだが、他方、神が万物を創造した方法は、権威あることばによった。

創世記1:3,神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。

同1:6,神は仰せられた。「大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ。」

同1:9,神は仰せられた。「天の下の水は一つの所に集まれ。乾いた所が現れよ。」すると、そのようになった。

 そして、エヌマエリシュにおける世界創造の第二段階は、混沌の克服である。淡水の男神アプスーは、生み出した神々と怪物が騒がしいので「寝られない」と腹を立てて滅ぼしてしまおうと、奥さんの混沌の女神ティアマトに提案する。するとティアマトは「私たちの子どもじゃないの酷いわ!」とわめきたてて喧嘩になる。そこでアプスーは奥さんである混沌の女神ティアマトを殺そうとしたが、エアに計画がばれて殺されてしまう。生き延びた混沌のティアマトだが、結局、いろいろとドロドロしたことがあった後マルドゥクに殺される。色々あったが、混沌ティアマトが克服されて世界は造られたというのがモチーフだと汎バビロン主義者はいう。そして、それを創世記1章2節に読み込んだ。だから、創世記1章2節の「トーフーワボーフー」を「混沌」と訳したのであろう。神の創造は「混沌の克服」だというわけ。だが、こういう聖書解釈はexegesis(釈義、読み取り)とは言わず、eisgesis(読み込み)という。

 なぜ、新共同訳、聖書協会共同訳の翻訳者たちはこう訳したのか。その根っこには、彼ら自身はどうか知らぬが、彼らが基づいた汎バビロン主義の学者たちの世界観の違いがある。新共同訳、聖書協会共同訳の基づいた学説の背景にある汎バビロン主義の学者の世界観とは、「創造主は存在するが、世界に介入することはないから、奇跡も啓示もない」という理神論的世界観なのだ。神はいたとしても介入しないのだから、実質、無神論であり自然主義的世界観である。だから、翻訳者自身がそれを認識した上でこの説を採用したのかどうかは定かでないが、汎バビロン主義にとって聖書という古文書は、当時の文化現象の一つであるということになる。聖書はその時代の周辺の文化、バビロンの神話から生じてきたに違いないということになるのである。この世界観に立てば、聖書各巻を、各巻が書かれた時代背景との類似性から解釈するのが正しいことになる。

 だが、神が実在し、歴史を摂理し、ときに奇跡や啓示をもって介入されるというキリスト教的有神論的世界観に立つならば、話はちがってくる。神は確かにある時代文化の中に住む人々に啓示としての聖書を与えるにあたって、当時の言語をもちいられた。そうでなければ理解できないからである。だが、それは神のメッセージであるから、時代文化に還元されるものではない。したがって、聖書各巻を理解する上で、より重要なのは、時代文化との類似に注目することではなく、時代文化との相違に注目することなのである。

<修正について 2022年4月20日>

1.コメント欄で私の口語訳聖書創世記1章2節の誤りを指摘していただきました。たいへんありがとうございます。その点について、修正を加えました。修正部分にアンダーラインをほどこしました。また、この文章は40年前に学生だった筆者が津村先生から聞いて理解したことに基づいて考えたことを書いたものなので、先生の真意をとらえているかどうか不確かです。
2.関連記事として、関心ある方はこちらをご一読ください。

koumichristchurch.hatenablog.jp