マルコ10:32−45
2017年3月12日
10:32 さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。
10:33 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。
10:34 すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」
10:35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」
10:36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
10:37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」
10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」
10:39 彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。
10:40 しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」
10:41 十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。
10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
10:44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
1. 受難の予告と弟子たちの野心
「さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。」32節。弟子たちは恐れを覚えたというのは、すでにこの時にはエルサレムに上るということが主イエスにとって危険な情勢になっていたからです。エルサレムでは、主イエスを憎む祭司長、律法学者たちがイエスをなきものにしようとしていました。ところが、主イエスは今までのようなあっちの町に福音を伝え、こっちの村に福音を伝えというような調子ではなく、はっきりとその危険きわまりないエルサレムを目指して進んで行かれます。先頭に立って。主イエスのただならぬ決意を感じて弟子たちは恐れていたのです。
そして、主イエスはこれからエルサレムに入ったら起こることを弟子たちに、はっきりと予告なさいます。33,34節。
10:33 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。 10:34 すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」
主イエスの受難と復活の予告はこれで三回目になります。その内容は、
主イエスは祭司長カヤパと律法学者に引き渡されること。
死刑に定められて、異邦人ポンテオ・ピラトに引き渡されること。
主イエスは辱めを受けて、殺されること。
しかし、三日目に主は復活なさるということです。
こういう受難の予告をなさると、前回9章30−35節でもそうでしたが、どういうわけか弟子たちはまた誰が偉いかという議論が始めるのです。主イエスが十字架にかけられて死ぬなどということはあってはならないという感情が、こんなことをさせるのでしょうか。なぜイエス様に死なれたら困るのかといえば、彼らは主イエスについて行くことによって、立身出世を夢見ていたからでした。
今回はたいへん露骨にそのことがあらわれています。ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、自分たちをイエス様の右大臣と左大臣にしてくださいと申し出ましたのです。平行記事によると彼らの母親も一緒にイエス様にまずお願いしたということのようです。息子たちの出世を願う母親です。
イエス様は、いろいろな場面でシモン・ペテロとともに、この二人の兄弟を特に訓練なさっていたので、彼らは、自分たちはイエス様に特別に引き立てて頂けるものだと思い上がっていたのでしょう。彼らは、主イエスがエルサレムでむざむざ殺されることなどありえないし、あってはならないことだと思っていました。そして、彼らの目には気弱になって、敵に渡されるなどとおっしゃるイエス様に対して、エルサレムで王座におつきになるときのことを、話したのです。
けれども、イエス様は、おっしゃいます。38節。
10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」
杯、バプテスマという言葉が意味しているのは、イエス様の受けなければならない辱めと十字架刑のことです。イエス様が王座につかれるためには、この十字架の辱めと死を通っていかねばならないということです。十字架の屈辱と死を抜きにして栄光はありえないのです。彼らはそんなこととは知らずに、軽率に「できます」といいます。ですが、彼らは間もなくイエス様を置いて逃げ出してしまうのです。もっとも、その後イエス様の復活に直面し、聖霊を受けたのち、彼らは主イエスのために苦しみをあえてうけ、また、殉教をしていくことにはなります(39)。
10:39 彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。10:40 しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」
こんな生臭い話を持ちかけたヤコブとヨハネのことを聞いて、ほかの十人の弟子たちはかんかんに怒りました。「10:41 十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。」
なぜでしょうか?それは、彼らも二人と同じような野心を抱いていたからにほかなりません。彼らもエルサレムで主イエスが王様になったら大臣になりたい、名誉と権力を手に入れたいものだと思っていたからにほかなりません。
2.神の国のリーダーシップ
主イエスは弟子たちを呼び寄せて、この世における価値観と神の国、イエス様の民の間における価値観が根本からちがうことをお話になります。42−44節。
10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
10:44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」
この言葉は社会における権威とか指導者の存在を否定しているのではありません。「人の先に立ちたいと思う人」、そういう賜物の人がいます。そのことを否定しているのではありません。ロマ書13章もいうように上に立つ権威は、善を促進し、悪を罰するために神が立てた、神のしもべものです。社会における総理大臣や裁判官、家庭における父親、学校における先生や、そして、教会における牧師、こうした人々はたしかに権威を上から授けられているのです。だから主は「偉くなりたい」ということも、「人の先に立ちたい」ということも否定されていません。ヤコブとヨハネに対しても、イエス様の御座の右左にすわるべき人がいるとおっしゃいました。大なり小なり人の集まりがあるところには、指導者が必要であり、また神様はそれを認めていらっしゃいます。
ここでイエス様が言いたいのは、「偉い人」「指導者」という権威を神様から授かった者が、陥りがちな過ちについておっしゃり、その心得を話していらっしゃるのです。その過ちとは、一言で言えば「仕えられたい」と思うこと、傲慢になるということです。この世にあっては、ある程度、それが普通の姿かもしれません。
こうした価値観は一体どこから入ってきたのでしょうか。それは悪魔がこの世に持ち込んだのです。悪魔は権力を求めます。天使のくせに、自らいと高きかたのようになって、あがめられたいと思って、堕落したのです。イザヤ14:12−15はそれを暗示する箇所として古代教会以来読まれてきました。
14:12 暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。
国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。
14:13 あなたは心の中で言った。
『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、
北の果てにある会合の山にすわろう。
14:14 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』
14:15 しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。
荒野の40日の試みのときには、神の御子であるイエス様にまで、「自分を拝んだら、この世のやろう」と言ったやからです。君たちが指導者というような立場になったとき、人にあがめられたい、仕えられたいと思うならば、それは悪魔の罠に落ちていることなのだとおっしゃるのです。
イエス様は、悪魔的な価値観が支配するこの世がそうであったとしても、あなたがたイエス様の弟子の間では、そういうことではいけないよとおっしゃるのです。
「10:43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
10:44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」
「しもべ」というへりくだった心でこそ、神様から授かった指導者としての権威は正しく用いることができるのだということです。「ぼくが右大臣だとか俺が左大臣だ」「俺が大蔵大臣だ・・・」などと言って言い争っている君たちはとんでもない見当違いをしているよ、と主イエスはおっしゃるのです。
3.主イエスの犠牲死の予告
そして、神の国の王の模範として、ご自分は来たのだとおっしゃるのです。
45節。
10:45 「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
神の唯一の御子であられるお方が人となって地上に来られた。それは地上で権力をふるうためではありませんでした。仕えられるためでなく、仕えるために来たと主イエスはおっしゃいます。
「まぶねの中に 産声あげ たくみの家に 人となりて
貧しきうれい 生くる悩み つぶさになめし この人をみよ
食する暇も うち忘れて 虐げられし 人を訪ね
友なき者の友となりて 心くだきし この人を見よ」
この賛美歌に、主イエスの公の生涯のありさまがよく表現されています。カペナウムで宣教を始めるとまもなく主はペテロの姑が熱を出して苦しんでいると聞いて、彼の家に出かけて手を取って癒してくださいました。安息日が明けると、ガリラヤ中から続々と病をかかえた人、悪霊に取りつかれた人たちがやって来て、イエス様はひとりひとりを癒されて、休む間もないほどでした。初日から、こんな具合でしたが、以来、福音を教えるかたわら、ずっとこういう人々に仕える生活をなさったのです。
そして、その奉仕の生涯の最後は、あの十字架でした。実に、自分の罪にうちひしがれて、滅びている私たちにしもべとして仕えるために来て下さったのです。「贖い」ということばは、奴隷を買い取る代価のことです。私たちは罪の奴隷となっていましたが、その奴隷である私たちを買い取るために、主イエスは、十字架で罪の呪いを身代りに受けて代価を支払ってくださったのです。「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」この主イエスの生き方と、十字架における死こそ、神の国の指導者の模範なのだとおっしゃるのです。
結び
知り合いの米国人宣教師が、「日本にはキリスト教がなかったのに『実るほど頭を垂れる稲穂かな』という教えばがありますね。不思議なことです。アメリカにはキリスト教があったのに、こういう価値観が乏しい。」と嘆いていました。しかし、いわゆる「道徳的教え」をいくら受けても人は根本において変わることはできないのです。それが立派な道徳的教えであろうと、愛の戒めであろうと、それが外から語られる教えであるかぎりは人を根本から新しくすることはないのです。神様の御子が直接教えてもそうだったのです。けれども、弟子たちはたしかに変えられる時が来ます。ヤコブは主のために命を捨てる人になります。ヨハネは愛の使徒として初代教会を指導し、最後は信仰のゆえにパトモス島に流刑にされながら喜んで主にご奉仕する人になります。
では、この弟子たちがほんとうに変えられたのは、いつからなのでしょうか。それはイエス様の十字架と復活という出来事があり、そして聖霊が与えられるという出来事があってからのことなのです。「十字架体験」を経ずして人は決して、根本から作りかえられるということはありません。イエス様が、この私の罪のために、十字架にかかってくださった。この私がイエス様を十字架につけた張本人である。私がイエス様をくぎで打ちつけ、この私がイエス様をやりで突き刺したのだ。それを悟るとき、初めて、人は仕えられるよりも仕えることを喜ぶ人に内側から変えられるのです。