苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

霊・魂・からだ

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。(1Thess5:23)

 

ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(2Cor4.16)

 

 

流行りの一元論

 人間がどのような部分から成っているかについては、カトリックプロテスタント西方教会の伝統では「人は精神とからだから成る」とする二分説が主流でしたが、ギリシャ正教東方教会では「霊と魂とからだ」から成るとする三分説が主流でした。しかし、現代の流行りは、ヘブライ的観点から見て、人間は二つとか三つに分けられるものではなく、統一的に考えるべきだと一元論を主張する学者が多いようです。たしかに人間の究極の救いは「からだのよみがえり」ですから、その点からいえば、聖書は確かに人間を一元的に捉えているのは事実です。

 しかしパウロは言いました。「私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。」(ピリピ1・23-24)この箇所を見れば、キリスト者の霊は死後、復活までキリストの御許にいるという中間状態があることがわかります。

 

二分説

 二分説は、人間を物質的側面と精神的側面という両面から見ます。そして、霊(プネウマ)と魂(プシュケー)は、同じ精神的側面を指している同義語であるとします。その根拠は、人間をプシュケーとソーマ(希:からだ)から成るとしている聖書箇所と、人間をプネウマとソーマから成るとしている聖書箇所があるからです。

 「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのち(プシュケー)のことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだ(ソーマ)のことで心配したりするのはやめなさい。いのち(プシュケー)は食べ物以上のもの、からだ(ソーマ)は着る物以上のものではありませんか。」(マタイ6・25)

 他方、人間をプネウマとソーマから成るとしている聖書箇所は次のとおりです。「私は、からだ(ソーマ)は離れていても霊(プネウマ)においてはそこにいて、実際にそこにいる者のように、そのような行いをした者をすでにさばきました。」(Ⅰコリント5・3)

 これらの箇所からすると、なるほど、魂プシュケーと霊プネウマは交換可能な同義語として用いられています。


三分説

 けれども、本日読んだ箇所は人が霊(プネウマ)・魂(プシュケー)・ からだ(ソーマ)という三つの部分から成っている教えています。

 「あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれますように。」(Ⅰテサロニケ5・23)です。

 では、三分説であるとすると、それは私たちにとってどういう意義があるでしょうか?霊と魂とはどのように違うのでしょうか?第二コリント4章16節から5章10節を開いてください。特に2コリント4章16節がカギです。

「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(Ⅱコリント4・16)この箇所の後には、パウロは、やがて私たちは「地上の住まいである幕屋」(同5・1、6参照)を去って、「天からの住まい」(同5・4)を着

ることになると話しています。地上の住まいである幕屋とは「外なる人」を意味していて、「天からの住まいを着る」とは復活を意味しています。

 

 では、「外なる人」と「内なる人」とは何を意味するのでしょうか?それを理解するには、「外なる人」と「内なる人」の違いを考えればわかります。聖書はなんと言っていますか?「外なる人は衰える」けれども、「内なる人は日々新たにされる」という違いです。では、私たちは年を取ると何が衰えるでしょう。老化によって衰えるのは、視力、聴力、腕力、脚力といった肉体的な機能があります。でもそれだけでなく、老化とともに知力が衰えて記憶力などが怪しくなります。意志も衰えて根気がなくなります。また嬉しいとか悲しいとかいった感情も鈍くなってくるものです。ですから、知力と意志と感情は魂の働きです。ですから、魂は「内なる人」でなく「外なる人」に属しているのです。

 人間の構成を、外側から、からだ・魂・霊に区別し、知力・感情・意志という心の働きを魂に属するものであるとすれば、からだと魂が「外なる人」であり、霊が「内なる人」であるということになります。つまり、キリスト者は、肉体と魂は老化とともに衰えても、聖霊が内に宿っていてくださるので、日々新たにされるのです。クリスチャンは肉体と知情意という魂の機能が老化や病気や事故で故障しても、霊は聖霊様によって日々新たにされるのです。

 

 私はかつて二分説がシンプルでよいのではないかと考えていましたが、牧会の現場で働くにつれて、人間の構成を二分説と考えるよりも三分説と考える方が妥当であると考えるようになりました。それは、私が出会った自閉症の青年や認知症のおばあちゃんや事故で脳に障害を負った人であっても、イエス様を信じて聖霊を宿すようになると、その人は確かに救われて新しくされるのを見てきたからです。

 練馬の教会に小林龍司君という少年がいました。重度の自閉症で、まったくコミュニケーションが取れなかったのです。けれども、小学校5年のとき、ある教会学校でのことでした。いつも彼は席についていることができず、ウロウロして時々奇声を上げていました。ところが、その日の係りのSさんがイエス様が十字架にかかった絵本を開いてお話を始めたとたん、龍司くんは前にでてきて、「イエス様の十字架、イタイイタイ、ごめんなさい」と繰り返し言うのです。以来、龍司君は毎週教会学校にくると、イエス様の十字架の絵をかいては「イエス様の十字架、イタイイタイ、ごめんなさい」と祈るようになりました。

彼の様子をずっと見ていて、私は確かにイエス様の御霊が龍司くんの内に宿られるようになったのだと確信しました。それで中学2年生のとき、いくつかの暗唱聖句をして、1991年2月24日に父子聖霊の名によって洗礼を授けたのです。

 先日、お母さんの小林慶子さんから、こんなメールをいただきました。抜粋します。

 

 龍司は今でも毎日少しづつ聖書を書き写しており、時々ノートに「イエス様、
あなたを信じています。」とか「十字架の道、十字架を運んでいます。」とか
「イエス様救いの君 イエス様の十字架」「我が主イエス様の十字架、そして復活」「我が主イエス、キリストを信じています」などと書いてあるので、そんな時はそこにも丸を付けるのですが、はじめは本当にびっくりしました。
教会での賛美やメッセージがいつの間にか心に残っているのかな~と思います。
必要なことを聖霊様が教えて下さっているのかな~とも。
本当にありがたいことです。
聖書の絵本もイエス様の十字架の所ばかりをじっと見ていました。
それは今も変わりません。
龍司は今年の5月で46歳になります。

ほんとうにありがたいことです。」

 

 もし人が肉体と魂から成っているという二分説に立つならば、知性・感情・意志という魂の機能が正常に働かない人は、信仰を持てないということになります。また熱心なクリスチャンであっても、脳に大けがをしたり、脳腫瘍や認知症になって正常に知性・感情・意志が働かなくなったら、その人は信仰がなくなったと見なされるでしょう。

 しかし、事実はそうではありません。たとえ先天的あるいは後天的に「外なる人」に属する脳に障害を負っていても、その人の「内なる人」である霊は、そこに宿る聖霊のゆえに日々新たにされているのです。かりに「外なる人」が壊れて、表面的に言動がおかしくなっても、それでその人が神から失われたわけではありません。ちゃんと聖霊がその人の内には生きていて、日々新しくされているのです。

 そして究極的には、かの復活の日キリスト者は御霊に属する復活のからだを受けて、霊とたましいとからだで、新しい天地で神の栄光のために仕えることになります。

 

詳細を学びたい方は『新・神を愛するための神学講座』第9章を参照してください。

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