苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

悪から罪へ

 アウグスティヌスは、若い日から悪の問題に悩んでいた。特に、彼自身、抑えがたい性的欲求に翻弄されていたからである。そういう彼はマニ教という精神を善とし肉体を悪とする二元論の合理的宗教にはまり込んでしまう。彼は詳細を語っていないので、想像するほかないのだが、おそらく自分のうちにある肉欲の問題に、ひとつの哲学的な解明が与えられると思ったからであろう。
 しかし、やがて彼はマニ教善悪二元論をもって霊肉の葛藤を説明はしたとしても、実際に肉欲に振り回されてどうすることもできない現実から、彼を解放しないことに気づいたのであろう。それとも、二元論というものが論理的に必ず逢着する、善と悪とが同じ権利をもって存在するとしたら、一方が善であり他方が悪であるというのは任意のことがらになってしまうという矛盾に気づいたのであろうか。やがてアウグスティヌスマニ教に失望してしまう。
 そうしたとき、友人の一人が彼にプラトン派の書物を読んでみよと奨めた。その書物を読んだとき、アウグスティヌスは悪の問題の解決を得たと考えた。プロティノスは、善なるト・ヘン(一つの者)からすべての存在が流出しており、ト・ヘンからの距離が近いものは善であり、遠ざかるにしたがって善が欠如していくという。善の欠如相が悪なのだということになる。アウグスティヌスはこうした説明に一定の満足を得たようである。神が善であるなら、なぜ悪が存在するのかということについて、悪は存在でなく非存在だということである。 また、彼はこうした哲学書の中に永遠のロゴスの理論も見出したという。こうしてマニ教を捨てた彼は哲学的な意味で、悪の問題の位置づけを得ることはできた。
 しかし、このような哲学的な説明を得たものの、自分が知的に高慢になるだけで、具体的な罪の問題はなんら解決しなかった。ところが、敬虔な母モニカとキリスト教徒たちは、難しい哲学探究をするわけでもないのに、喜ばしく清い生活をしているのをみてアウグスティヌスは妬みを感じた。彼はやがて有名な「とりて読め」という不思議な声に促されてローマ書を開いた時に決定的な回心に到る。
 キリストを知ったとき、彼は「悪」ではなく「罪」を認識する。「悪」を考えるときには、アウグスティヌスは観念的な自分の外の哲学的な問題として、これを扱うことができた。しかし、ことは悪でなく「罪」の問題ということに気づいた。自分自身の根本的な問題である。

 贖罪を、キリストの悪魔と諸力に対する勝利としてとらえる劇的贖罪説というのがプラトン哲学の影響の強い東方教会のスタンダードであるが、そこで問題となっているのは、「悪」である。「悪」を、自分自身の問題としてとしてとらえ直すとき初めて、人は己の罪と、聖なる神の怒りと、神の愛の奥義が、キリストの十字架において表されていることを知る。


1 十字架のもとぞ いとやすけき
神の義と愛の あえるところ、
あらしふく時の いわおのかげ、
荒野のなかなる わが隠れ家

2  十字架のうえに われはあおぐ
わがため悩める 神の御子を。
妙にもとうとき かみの愛よ、
底いも知られぬ ひとの罪よ。