苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

全民族宣教命令

マタイ28:19「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」

ルカ24:47「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」

 

 「あらゆる国の人々」とは、マタイ福音書でもルカ福音書でも、ギリシャ語で「パンタ・タ・エスネー」という。この翻訳はいかがなものかと思う。というのはエスネーというのは、行政単位としての「国」ではないからである。エスノロジー(ethnology)が民族学を意味するように、エスネーとは民族を意味する。主イエスがご在世当時でいえば、ローマ帝国の中には、たくさんの民族が呑み込まれていた。パウロはそれら諸民族を意識して伝道していった。だから、新共同訳聖書が、「パンタ・タ・エスネー」を「すべての民を」と訳した方がましである。だが、それでも曖昧なので、もっと正確には「あらゆる民族を」と訳すべきであった。マタイ24:14ではエスネーは正確に「民族」と翻訳されているのである。「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。」マタイ24:14

  現在、グローバル化によって、日本列島にもさまざまな民族が生活している。もともと暮らしていた大和民族アイヌ民族以外にも、国際都市とはいいがたい苫小牧に住んでいても、私が知る人々の中には、漢民族、モンゴル民族、朝鮮民族、フィリピン人、マレーシア人、スリランカ人、ネパール人、台湾人といった人々がいる。札幌や東京であればなおのことであろう。こういう状況を鑑みれば、その気になれば国内にいて主イエスの「全民族宣教命令」に応答することができるのである。

 たとえば、日本に住むようになった異民族の人々が共通して困っているのは、言葉、異文化への適応ということであろう。そうしたニーズに応えるかたちでコンタクトをつくって、福音を伝えていくことができる。それどころか、キリスト教が禁止されている故国では福音に接することができなかった人々が、日本にいる間にキリストの福音を聞くことができるのである。

 これまで「国外宣教」を志して来た教団・教派・教会は、主のご命令に応えるために、聖書的に見て不正確な看板は下ろして、むしろ「全民族宣教」と看板を代えるべきではないだろうか。そうしたら、なすべきことが見えてくると思う。