苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「あらゆる国」でなく、「すべての民族」

マタイ24:14

 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に(pasin tois ethnesin)証しされ、それから終わりが来ます。

マタイ28:19

 ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を(panta ta ethne)弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、

マルコ13:10

 まず福音が、すべての民族に(eis panta ta ethne)宣べ伝えられなければなりません。

ルカ24:47

 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に(eis panta ta ethne)宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、

ローマ1:5

 この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に(en pasin tois ethnesin)信仰の従順をもたらすためです。

 上記のみことばはいずれも、新改訳2017の新約聖書における世界宣教について教えている箇所であるが、翻訳語に一貫性がない。問題はethne(エスネー)ということばである。これはethnosの複数形である。これをあるところでは、「民族」と訳し、あるところでは「国」と訳し、あるところでは「異邦人」と訳している。どれが正解なのか。結論からいえば、「民族」「異邦人」が正解であると思う。

 新約聖書が成立した当時、ローマ帝国という一つの「国」の中に、多くの民族が呑み込まれていた。パウロは異邦人への使徒であるが、ローマ帝国の中の異邦人たちに福音を宣べ伝えたのである。彼がした宣教は国内宣教であり、国内で全民族伝道(異邦人伝道)をしたのである。(もちろん「くに」という日本語はとても曖昧で、地方を意味することもあるのだけれど、それはここでは横におく)

 私たちの住む日本という国は、長年大多数の大和民族と少数のアイヌ民族の住む列島であったが、今日では多数の民族が共に暮らしている。苫小牧は国際都市とは呼ばれないけれども、私が知っているだけでも、台湾人、マレー人、ネパール人、韓国人、漢人、モンゴル人が住んでいる。東京や札幌ではもっとたくさんの他民族が住んでいる。ロシア人やウクライナ人たち、イラン人もアラブ人、欧米の諸民族も住んでいる。国外宣教をする必要はないと言いたいのではないが、国内に住む諸民族に宣教をすることが大事だと言いたい。「国外宣教」という呼称自体、聖書にかなっていない。むしろ「全民族宣教」あるいは「異邦人宣教」という方が聖書的である。そうすると、宣教戦略も大きく変わってくるに違いない。

<同日追記>

 沖縄にしばらく暮らした経験のあるFB友の方から、「『日本という国は、長年大多数の大和民族と少数のアイヌ民族の住む列島であった』という記述が気になる。琉球民族についてはどうなのか。」という趣旨のコメントをいただきました。
 私もそのことは念頭にはありました。民族の定義にもよりますが、言語的に言えば、私がむかし言語学の音韻論で教わったところによれば、琉球語大和言葉であるということがグリムの法則からわかっているので、同じ民族と考えるべきかなというふうに思っているので、書かなかったのです。DNA的には琉球の人々とアイヌは縄文的であり共通するとのことですけれども。
 ちなみに、ミトコンドリアDNAの分析によれば、日本列島に住んでいる住民は、朝鮮型・漢人型・縄文型がそれぞれ25パーセント、日本人固有型が5パーセント、その他が20パーセントであることがわかっているそうです。こうして見ると、民族の定義をDNAでするのは無理であると思います。
 こちらを参照。

koumichristchurch.hatenablog.jp