「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで無から創造されたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。」(へブル11・2)
神は、万物を無から、ご自分のことばによって出現させるという超自然的方法によって創造した。本来、17世紀に出現したガリレオ、ケプラー、パスカルたち天才たちによって確立された自然科学は、今、目の前で起こっている自然現象に関して、仮説を立て観察ち実験によって検証を繰り返して、その真相に近づいて行くものである。したがって、厳密な意味での自然科学は過去に一度かぎり起きた事象については守備範囲外である。今、ここに起きている事柄、あるいは過去にあった出来事の痕跡から、過去にあった出来事を推測はできたとしても、実際にそれが起きたかについては検証ができないからである。彼らは過去において神がことばによって万物を創造したことは、それとしてそのまま信仰によって受け入れ、今、神が通常摂理に用いている自然法則を見出すことに努めたのである。
だが、現代の科学者は守備範囲を越えて、過去に一度限り起こった世界の出現がどのようにして起こったかについて、仮説を立てている。それは自然科学ではなく、むしろ歴史学者による過去の出来事に関する解釈に類するものである。あるいは刑事が犯行現場に残された証拠から、誰が何をしたのかを推測することに類することである。彼らは、今見える事柄、残された痕跡から、過去に起こったことを推測しているにすぎないので、それは厳密な意味での自然科学ではない。
しかも現代の多くの科学者は、「自然主義的であること」と「科学的であること」ということを混同しているから、自然主義的パラダイムで現在「見えるもの」によって、過去に何が起こったのかを推測をして、それが科学的だと主張する。彼らは自然主義に立つので、「見えるものが、目に見えるものからできた」と前提して、推測しているにすぎないのであって、それは厳密な意味で自然科学ではない。
しかし、聖書は「見えるものが、目に見えるものからできたのではない」と教えている。聖書は、過去のある時点で、神が無からことばによって万物を創造し、かつ、これを通常摂理と特別摂理をもって摂理していると教えているのである。