苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「国外宣教」を「全民族宣教」に改めよう

 マタイ福音書末尾の大宣教命令を新改訳2017は「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としさない。云々・・・」(マタイ28章19節)と訳しているが、これはいかがなものか。「あらゆる国の人々を」はパンタ・タ・エスネーであり、同じマタイ福音書2017訳は24章14節は「すべての民族に」(パーシン・トイスエスネシン)であって、前者は対格、後者は与格という違いだけである。翻訳者は、「あらゆる国の人々」と「すべての民族」の意味の重大な違いについて認識しているのであろうか。邦訳聖書のうちでは新共同訳は「すべての民」と訳していて、これは正しい。

 使徒パウロは国外宣教師ではない。彼はローマ帝国内のさまざまな異民族に伝道して回ったのである。主イエスは国外宣教でなく異民族宣教を命じられた。これまでイスラエル民族の中に限られていた神の王国を、あらゆる民族に広げるために宣教したのである。今、日本列島にもさまざまの民族が暮らしている。特に故国が強力なイスラム政権であったり、過激な仏教政権とかであると、故国では福音に触れることもできない人々が、日本にいる間であればキリストの福音を聞くことが許されている。わざわざ莫大なお金を使ってキリスト教が禁止されている国に出かけて、「この国では伝道ができない」と嘆く必要はない。日本にその国から来ているその民族に福音を伝えればよいのである。

 日本の教会は、どうも国外宣教という枠にとらわれてしまって、国内でできる異民族伝道をないがしろにしてきたのではないか。「国外宣教」という非聖書的概念を取り払って、「全民族宣教」と改めて意識を刷新する必要がある。