明日の説教(マタイ12章22-30節)の準備をしながら、「国(王国バシレイア)」がカギのことばであることに気づいて、考えさせられたこと。
現代のクリスチャンである私たちは、合理主義的なものの見方の癖がついてしまっているために、聖書が教える悪魔・悪霊のリアリティがわからなくなっているのではないか。エペソ書2章冒頭や6章後半、コロサイ1章がいうように、聖書は、この世が悪魔の圧政の下に置かれていると教えている。
近代聖書学の成果として「神の王国」が福音書、新約聖書全体の主題だということが指摘されて百年以上にもなる。「福音とはイエスは王だという宣言だ」というのは本当である。だが、「神の王国」が「悪魔の王国」の対義語であることにはあまり気づいていないから、「神の王国」ということばも、キリストが王だということがリアリティに欠けている。
「神の王国」は王なるイエスの十字架の死と復活によって、「悪魔の王国」をくつがえして前進していく。合理主義で目の曇った私たちに、「悪魔の王国」が見えていないのは、実は、C.S.ルイスが悪魔の手紙の巻頭でいうように、悪魔の策略によるのであろう。こういうことは、むしろペンテコステ、カリスマ系の人々のほうがはっきりとわかっているのだろう。
贖罪論の教理史では、キリストが悪魔に対処したという観点からの古代の贖罪論は、キリストが神の前に私たちの罪を償われたというアンセルムス、宗教改革者の贖罪論にとってかわられ、対悪魔的な二元論は克服され一元論的に説明されるようになったという説明がされることが多い。だが、実際に宗教改革者の書いたものを注意深く読めば、そんなことは書かれていない。ルターもカルヴァンも、キリストは神の前に代償的贖罪を成し遂げたこと、悪魔と死と罪に対して勝利を収めたことを教えている。キリストは、祭司であり王であるお方なのである。