苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

キリストは王

 カルヴァン以来、キリストの職務は預言者・祭司・王の三つであるという言い方がなされてきました。三つの働きが切り離せないので、キリストの三重職(three-folded offices)とも言われます。しかし、福音書を読むと、「時が満ち、神の王国は近くなった。」とイエス様が宣教を始めたことからして、また、福音書全体にキリストは王ということが首尾一貫して流れていることからして、そして黙示録の22章からして、イエス様は基本、王なのだということに気づかされます。その限りにおいて、「福音とはイエスは王であるという宣言だ」というN.T.ライトの主張は本当です。そして、その王としての務めを果たすために、預言の働き、祭司の働きをなさるのです。
 このことは、創世記1章の万物の創造と人の被造物の相続者なる王としての務め、黙示録22章の人がキリストとの共同相続者なる王となることとつながっています。神が最初の世界を造り、人間に「地を支配せよ」と命じた時に目指しておられたゴールは、黙示録最終章に見える神の王国の完成にほかなりません。御子は神の王国の相続人となり、御子に連なる者たちは共同相続人となるのです。

 王なるキリストは、神ご自身とその御旨を伝える預言の働きをし、自らを代償の犠牲としてささげる祭司の働きをすることによってキリストを信じる者に神との平和をもたらし、私たちを神の子すなわち王国の共同相続人としてくださったのです。

 

 ただし、ライトは以前にも書いたように玉石混交で、「福音とはイエスは王であるという宣言だ」というライトの主張は本当ですが、残念ながら第二神殿期のユダヤ教の視点にこだわりすぎ、事実上、聖書正典以上に第二神殿期のユダヤ教文献を重んじる新約聖書の読み方をしたために、王なるキリストが果たした祭司としての代償的贖罪の務めの王国への入り口としての決定的重要性を見落とし、キリストの代償的贖罪を根拠とする義認について大きな読み違いをしています。自分の好みの一つの観点にこだわって全貌が見えなくなるということは、私たち人間にありがちなことです。気を付けたいものです。