苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

アブラハム 神の友

 「信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。神はアブラハムに『イサクにあって、あなたの子孫が起こされる』と言われましたが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。」(へブル11:17-19)

 

 アブラハムは「神の友」と呼ばれます。なぜでしょうか。ヤコブ書によれば、それはアブラハムが信仰をもって愛するひとり子イサクを神にささげたからです。(ヤコブ2:21-23を参照)。新改訳第三版は、へブル書11章19節を「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」と訳し、前田訳は「彼は神に死人の中からよみがえらせる力がおありと信じていました。それで彼はイサクをふたたび得たのですが、それは復活のたとえでもあります。」と訳していました。へブル書が言いたいことは、アブラハムがすでに心の中ではいけにえとして神に捧げてしまったひとり子イサクを取り戻したのは、二千年後、父なる神が御子イエスを死者の中から取り戻した出来事の型であるということです。では、あのモリヤの山でアブラハムは誰の型となったのでしょうか。父なる神の型となったのです。

 アブラハムのかたわらを、ひとり子イサクが自分が焼かれるための薪を背負ってモリヤの山を登る姿は、二千年後、御子イエスが自らが磔にされる十字架を背負ってゴルゴタの丘への道を上っていく姿と重なっています。ひとり子イサクから「お父さん。火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」と問われた時、アブラハムの胸は引き裂かれてしまいました。アブラハムは、私たち罪人を救うために十字架に愛するひとり子を架けなければならなかった天の父の痛みを経験したのです。

 だからこそ、神はアブラハムを「わたしの友」と呼ぶことをよしとされたのでしょう(イザヤ41:8)。「友はどんなときにも愛するもの。兄弟は苦難を分け合うために生まれる。」(箴言17:17)とあります。神は、「アブラハこそは、わたしの痛みをわかってくれる奴だ」とお認めになったのでしょう。