苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神の友アブラハム

創世記22章

2016年11月27日   主日礼拝


1.試練

「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。」

 アブラハムの生涯は、ここにいたるまでさまざまの試練に満ちていました。けれども、それらの試練はこの22章に記される試練に比べれば、小さなものでした。この試練は神のすべての訓練の課程を終わって、いよいよ最後の試練です。今回の試練こそ試練の中の試練です。
 「アブラハムよ。」と呼びかけられる主なる神の御声に、「はい。ここにおります。」とアブラハムは返事をします。これは主人に対する僕の返事です。アブラハムの、主に対する信仰はしもべとして、御言葉に聞き御言葉に従うという信仰として成熟していました。自分の思いで走り出し、神様に助けてくださいと祈るようなことではなく、神のみことばをいつも聴き、神のみことばに従うという信仰です。
 
 さて、このたび主がアブラハムに命じられたことは恐るべきことでした。2節。

「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

イサクという存在がアブラハムにとってどのような存在であるかということを、よくよく確認するようにして神はおっしゃったのです。「あなたの子、あなたの愛している、ひとり子、イサク」と。あなたの子、しかも、あなたの愛する子、しかも一粒種のイサクです。単なる一粒種でなく、アブラハムに神がくださった約束の成就の子です。
 その子をモリヤの山に連れて行って全焼のいけにえとせよとおっしゃるのです。モリヤの山とは今のエルサレムのある山です。全焼のいけにえとは、いけにえのうちでも格別、神に対するまったき献身を表現するいけにえでした。つまり、すべて煙にして天に上らせてしまうという種類のいけにえでした。神様は、アブラハムに、神に対する完全な献身を表現せよとおっしゃったのでした。
 イサクはアブラハムにとって、自分のいのちよりもたいせつな子でした。イサクは単に血を分けた我が子としていとおしいという以上の存在でした。アブラハムが神のご命令に従って約束の地に出てきて以来四半世紀待ちつづけて、ついに与えられた子だったのです。この子はアブラハムの相続人となるという約束を与えられた子でした。アブラハムの人生そのもの、いのちといっても良い存在だったのです。けれども、神様はこのアブラハムが愛するひとり子イサクをすべてご自分にささげよとおっしゃったのです。これはどういうことでしょうか。
 それは、イサクという子どもがアブラハムにとって大切であれば大切であるほど、アブラハムの信仰の生涯にとって、危険な存在ともなりえたからです。下手をするとイサクは神が賜った一粒種の子ですが、その子のほうが神ご自身よりもたいせつになってしまう危険があったのです。つまりは、アブラハムにとってイサクが神以上の存在、偶像となってしまう危険があったのです。
 キリスト者にとって、一番大切なものは、神以外の何者であってもいけません。それが趣味であれ、財産であれ、仕事であれ、名誉であれ、社会的地位であれ、子どもであれ、妻であれ、恋人であれ。それを神にかわる偶像となってしまうと、結局その「すばらしいはずのもの」はあなたの人生を害するものとなってしまいます。それが神からいただいたものであるということは、もし神からそれをささげよといわれたならば、ささげることです。委ねることです。神様は時にそうしたことをお求めになることがあります。


2.アブラハムの信仰

 「愛する一人子イサクをささげよ」というご命令に対するアブラハムの反応は驚くべきものです。アブラハムの心に渦巻いた思い、たとえば驚きや悲しみや憤りや戸惑いや躊躇といった、いわば小説を書こうとする人、映画化しようとする人が期待するようなことは、聖書には一言もかかれていません。なんと書かれているでしょうか。

3節「翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者といっしょに連れて行った。」

 「翌朝早く」です。神のお言葉でしたからアブラハムはただちに従ったのでした。アブラハムの神様にこれまでの歩みを通して鍛え上げられた信仰の一つの側面は、主のご命令に従うというシンプルな信仰でした。
 アブラハムと息子イサク、そして二人の若者の四人連れはモリヤの地に向かいました。途上、一人子イサクを焼くための薪を割りながら、アブラハムは何を考えていたのでしょうか。やがて、はるかかなたにモリヤの山(エルサレムの山)が見えました。そこで、アブラハムは二人の若者を置いて、息子と二人きりで前進してゆくのです。この第5節にはアブラハムの信仰が現れています。

「私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところへもどってくる。」

 日本語では分からない表現ですが、ヘブライ語では「行く」「礼拝する」「戻ってくる」という動詞がみな一人称複数形になっているのです。つまり、アブラハムは「息子とわたしは行き、息子とわたしは礼拝し、息子と私は戻ってくる」と言ったのです。
 これはどういうことでしょう。アブラハムは、確かにイサクをいけにえとして手にかけて、そして煙にしてしまうつもりなのです。それなのに、アブラハムはふたりしてここに戻ってくるのだと断言したのです。私たちの理解を超えています。超えていますが、アブラハムは本気でイサクを捧げるつもりであり、本気で二人でもどってくるつもりだったのです。なぜでしょうか。アブラハムは主の約束を信じていたからです。主は「わたしはイサクと契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約として立てる。」とおっしゃったので、そのことをはっきりと信じていたのです(創世記17:19)。アブラハムの信仰のもう一つの側面は、主の約束は信じるということでした。そうです。神様が今日まで鍛え上げられたアブラハムの信仰は主のご命令は信じ、主の約束にはしたがうというたいへんシンプルなものでした。

 さて、アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それを我が子イサクに背負わせました。そしてイサクに火をつけるための火を取り、それで我が子をほふるための刀を手にして進んでいくのです。
 モリヤの山を登って行くとき、息子イサクが黙々と歩を進める父に言いました。「お父さん。」アブラハムの胸はイサクに対するいとおしさで張り裂けんばかりだったでしょう。「なんだイサク」父は答えます。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊はどこにあるのですか。」そのとき、アブラハムは言いました。アブラハムのことばは一種の啓示でした。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」

 アブラハムが経験していたのは、神のみことばに対する信仰の試練だったのです。
 アブラハムは神の約束をいただいていました。その約束とはイサクから神の民が出てきて、世界の万民は祝福されるということでした。ところが、神の命令はイサクを全焼のいけにえとしてささげよということです。
 この命令と約束とは、人間の目から見るならば、まったく矛盾している。両立し得ない。イサクから星の数のように神の民が出てくるのであれば、イサクが子どもも残さずに死なねばならないというのは、理にかなわない。
 アブラハムはこの矛盾をいかにして乗り越えたのでしょうか。彼は神には死者を復活させることができると信じたのであると新約聖書にあります。ヘブル11:17−19.
「信仰によってアブラハムは試みられたとき、イサクを捧げました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して『イサクから出るものがあなたの子孫と呼ばれる』と言われたのですが、彼には神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」
 彼は神の約束は信じ、そして、神の命令には従うというたいへんシンプルな信仰をもってこの試練をみごとにクリアしたのです。

適用>
 神様がある命令をお与えになる。人間の知恵、理性で考えると、その命令にしたがった場合、どういうことになるかということをいろいろと思い煩ってしまうでしょう。かつてのアブラハムはそうでした。約束の地に到着すると、ききんが起こりました。アブラハムは自分の頭で理屈を考えました。神のご命令からいえば、確かにこの地にとどまるべきでしょう。けれども、このままでは一族が飢えてしまう。そうしたら、この地を相続することができない。それならば、一時エジプトに退去して改めてもどってくれば良いという理屈でした。そして、失敗しました。
 また、子どもがなかなか与えられなかったときのことです。妻はもはや子どもを生める体ではなくなりました。アブラハム夫妻には理屈がありました。神は子孫をくださると約束なさった。このままではアブラハム自身も年老いて子を得ることができなくなるでしょう。そこで、この世の慣習にしたがってハガルという女奴隷から息子を得たのです。これもまた誤りでした。
 けれども、いよいよ夫百歳、妻90歳のとき神様が子を授けるとおっしゃったそのとおりを信じました。そして、そのとおりになったのでした。アブラハムは今日までの度重なる神の御前での経験を通して、人間の理屈に頼ってはいけない、神のことばをこそ信じるべきであるとわかったのです。神の約束は信じ、神のご命令には従うことこそ唯一の確かな祝福の道だと確信したのです。
 事実、アブラハムの信仰に対して神様はすばらしい祝福をお与えになりました。それはアブラハムへの祝福にとどまらず、地のすべての国々への祝福となったのです(16-18節)。

 私たちは人生の中で、神様から「これでも信じるか、従うか」と問われることがあります。私たちは自分の頭、自分の理屈で計算すると、納得できないところに置かれることがあります。けれども、神様が求めていらっしゃるのは、神の約束は単純に信じること、そして、神のご命令には従うことなのです。どちらも捨ててはいけません。小なりとはいえ私たちもキリスト者です。神の約束を信じ、神のご命令に従いましょう。そしてアブラハムが世界の大いなる祝福の基となったように、私たちも祝福の基となりたいものです。


3.父なる神が御子を死から取り戻した型

 ヘブル書は「これは型です。」と言います(11:19)。その意味は、角を雑木にかけた雄羊がキリストの型だということではありません。そうではなく、アブラハムが一度は死んだと思った愛する一人子イサクを死者のなかから取り戻したことは、父なる神が一度死んだ愛するひとり子イエスさまを復活によって死者の中から取り戻したことの予型であるということです。
 神はアブラハムに対して、イサクは「あなたの子、あなたの愛しているひとり子」だと言われました。イサクは、天の父にとっての御子の型です。アブラハムは、御父の立場にあります。父に薪を背負わされたイサクが、自らいけにえとされるために、モリヤの山を一足一足踏みしめて登って行く様子は、私たちにこの二千年後に同じ場所で起こることを思い起こさせます。そうです。神の一人子イエス・キリストが、十字架を背負わされてゴルゴタの丘への道ビア・ドロローサを一足一足踏みしめて登って行かれたあのことです。あのとき、目には見えませんが、ちょうどアブラハムがそうであったように、父なる神は胸が張り裂けるような心持で、御子が山を上ってゆくのを見守っておられたのでしょう。
 イザヤ41:8に神様は「わたしの友アブラハム」とおっしゃっています。それは神様からごらんになったときアブラハムこそがご自分の心をわかってくれる男であると認められたからでしょう。「友の慰めはたましいを力づける」と箴言にあります。御子イエス様を地上に送り、御子イエス様をゴルゴタの丘に立てられたのろいの十字架にかけなければならなかった父なる神は、アブラハムのモリヤでの奉献に慰めを得られたのでしょうか。
 ただ、神様はその友アブラハムを、最後の最後にお助けになりました。10節から13節。

22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
22:11 そのとき、【主】の使いが天から彼を呼び、「アブラハムアブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

 アブラハムは振り上げた刀を止められ、神は身代わりの羊を備えたまうたのです。
 しかし、神様はご自分のことはお助けにはなりませんでした。神様は私たちの罪のために、ご自分の愛するひとり子を犠牲にされたのでした。アブラハムのイサク奉献という出来事は、ゴルゴタの丘の十字架の出来事の型だったのです。そして、アブラハムがあたかも死者の中からわが子を取り戻したように、御父は事実死者の中から三日後わが子を取り戻されたのです。

 私たちは、ただ神様から慰めて欲しい、神様から恵みが欲しい、神様に愛して欲しいと思って生きているのではないでしょうか。それは確かにまちがいではありません。良いことです。けれども、「わたしの友アブラハム」とおっしゃる神様の御心を思うならば、私たちはもう一歩先を望まねばならないでしょう。
 そうです。私たちは神様から「君はわたしの友だよ」と言われるような者となりたいと思うのです。神様から慰められることのみを求めるのではなく、神様の愛にお答えするものとなりたい。私たちを愛し、罪人である私たちのためにいのちさえ惜しまなかった主を愛する者となりたい。