苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

イサク―父の足跡を

 

イサクはそこから移って、もう一つの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、この地で私たちが増えるようにしてくださった。」

彼はそこからベエル・シェバに上った。主はその夜、彼に現れて言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加える。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」  創世記26章22-24節

 

 

 信仰の先駆者父アブラハムと、聖なる貪欲の息子ヤコブという強烈な個性にはさまれて、やや影が薄いのがイサクです。彼は、父のしもべがはるかハランの地から連れてきたリベカを娶りました(24章)。かつて父アブラハムは飢饉でエジプトに避難したとき、妻を妹と偽ってわが身を守ろうとする過ちを犯しましたが、イサクも飢饉のときには同じ過ちを犯しました(26:1-11)。またイサクはかつて父が堀って、その後、使わなくなっていた井戸を次々に掘り直して水を得ました。(26:12-22)。イサクは、よきにつけあしきにつけ父の足跡に自分の歩みを重ねて生きた人でした。個人の主体性を重んじる現代の価値観から見ると、イサクの生き方は物足りないと感じる人が多いかもしれません。

 ところで、個人主義という時代の価値観に影響されて、「信教の自由があるので、子どもに信仰教育はしません。」という人を時々見かけますが、大きな誤解です。近代国家における自由とは、国家の束縛からの自由を意味します。「信教の自由」とは、国民は信仰について国家の束縛から自由であるという意味であって、親が子にキリスト信仰の教育をすることを何ら妨げるものではありません。イサクが父アブラハムから相続した最大のものは、主の祝福の約束でした。イサクは、父アブラハムのゆえに祝福されたのです。新約時代も、救いの約束はあなただけでなく、「あなたがたに、あなたがたの子どもたちに」(使徒2:39)与えらえています。

 キリストの福音は「信仰の従順」(ローマ1:5)をもたらすものです。イサクは信仰の従順の模範です。イサクの信仰生涯の頂点は青年時代のモリヤの山の出来事でしょう(22章)。老父が彼を手にかけて全焼のいけにえとして捧げようとした時にも、イサクは父に従いました。ここまで従順に徹したという意味でイサクは前代未聞の信仰者であり、御父の御旨に十字架の死にいたるまで従い通した御子イエスの偉大な型です。