苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

井作さん  

創世記26:12−33

2017年1月15日夕礼拝

イサクは、父のコピーだといわれますが、ここまで見事にコピーできたら、たいしたものです。


1.喜ぶ者とともに

 12節から16節。カナンの地が旱魃になって、イサクと一族は避難民としてゲラルの地に身を寄せてきました。ゲラルの王アビメレクは、気前よく彼らを迎えて土地も提供してくれました。アビメレクは、まことの神を崇める人ではありませんでしたが、なかなかの紳士です。
イサクの一族は、この地で種をまくと100倍の収穫を得ました。主の祝福をいただいて富み栄えました。ところが、これが仇となります。ゲラルの人々からねたみを買ってしまったのです。

26:12 イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。【主】が彼を祝福してくださったのである。
26:13 こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。
26:14 彼が羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。
26:15 それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしてこれをふさいだ。
26:16 そうしてアビメレクはイサクに言った。「あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、われわれのところから出て行ってくれ。」

 罪深い人間の性というものでしょう。「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣きなさい」と言いますが、泣く者とともに泣くことは比較的たやすいことですが、喜ぶ者とともに喜ぶことはそれほど簡単ではありません。なぜでしょうか?泣いている人に同情するとき、私たちは優越意識をもっていることができますが、喜んでいる人がいるとき私たちは往々にして劣等感や妬みにとらわれてしまうからです。このゲラルの人々はまさにその通りでした。イサクの一族がやってきたときには、かわいそうにと迎えられましたが、彼らが百倍の収穫を得ると、ねたんで農業をするために不可欠の井戸をふさぎ、出て行ってくれと言い出すのです。
喜ぶ者とともに喜ぶことができてこそ、本物の霊性、御霊に満たされた人です。



2.井作・・・相続者

イサクは、井戸を埋められてしまいました。そうしたらイサクはどうしたでしょうか。きっと一族の中には、「ひどい!」と怒る人々もいたでしょうが、イサクは穏やかな人で争いを好まず、「いや、本当に困っていたときに、助けてもらったのに、今になってそんなことをいうべきではない」と、場所を移して、ゲラルの谷あいに天幕を張りました。そして、また父が昔掘った井戸を掘りました。そして、その井戸に父がつけた名を再びつけたのです。

26:17 イサクはそこを去って、ゲラルの谷間に天幕を張り、そこに住んだ。
26:18 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った。それらはペリシテ人アブラハムの死後、ふさいでいたものである。イサクは、父がそれらにつけていた名と同じ名をそれらにつけた。

 こんなわけでイサクは井戸掘り名人と呼ばれ、日本人クリスチャンで初代の人は自分をアブラハムと意識するからでしょうか、息子にイサクという名前を付ける人がいます。そのとき井戸を作ると書いて「井作」とつけたりします。それにしても、イサクはほんとうに父の足跡に自分の足跡を重ねるように、その人生をたどっていくのがなんとも印象的です。父に対する神の契約を継承し、父の井戸をも継承するのです。
 ところが、谷間で井戸を見つけると、ゲラルの羊飼いたちがけちをつけるのです。

26:19 イサクのしもべたちが谷間を掘っているとき、そこに湧き水の出る井戸を見つけた。
26:20 ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ」と言って、イサクの羊飼いたちと争った。それで、イサクはその井戸の名をエセクと呼んだ。それは彼らがイサクと争ったからである。

 イサクは争いを好まず、また、エセクという井戸を彼らに明け渡して、またしもべたちに井戸を掘らせます。ところが、またもゲラルの羊飼いたちは強欲にも、その井戸は俺たちのものだと言い張るのです。

26:21 しもべたちは、もう一つの井戸を掘った。ところが、それについても彼らが争ったので、その名をシテナと呼んだ。

 そこで、イサクはシテナの井戸もゲラルの羊飼いたちに明け渡して、一族を連れてゲラルの谷あいから広いところへと移動するのです。ここレホボテでようやくイサクと一族は井戸と安住の地を得ました。

26:22 イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、【主】は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」

 イサクは、井戸をめぐっての争いによって、追いやられるようにしてこの地にやってきたのですが、彼はそこに主のご計画、主の摂理を見たのです。そして、父アブラハムが礼拝をささげた場所ベエル・シェバすなわち七つの井戸という場所で、神に礼拝をささげるのです。

  26:23 彼はそこからベエル・シェバに上った。
26:24 【主】はその夜、彼に現れて仰せられた。
  「わたしはあなたの父アブラハムの神である。
  恐れてはならない。
  わたしがあなたとともにいる。
  わたしはあなたを祝福し、
  あなたの子孫を増し加えよう。
  わたしのしもべアブラハムのゆえに。」
26:25 イサクはそこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った。

 神様の摂理です。狭い谷あいの地に始まった彼の歩みは、追われおわれて、最後には広いすばらしいところに至ったのでした。そしてアブラハム以来の礼拝の記念の場所、ベエル・シェバでの礼拝。神様はここでイサクに現れて祝福を約束してくださったのです。
 さて、イサクは意気地なしだったから、ペリシテ人たちに言いがかりをつけられると、さっさと次の地に移って来たのでしょうか。ペリシテ人たちは、きっと「イサクは意気地なしのお坊ちゃんだぜ」と言ったでしょう。あるいは、一族のなかにも、「イサク様はもう少し勇ましいところがあればよいのに。」という声もあったかもしれません。
 けれども、よくよく読むとそうではないことが分かります。イサクは、一つ一つの出来事のなかに神様の摂理があるという信仰を持っていたのです。ペリシテ人たちが、イサクをねたみ欲に駆られて争いを仕掛けてくることに対しても、イサクはきっと神様のみこころがあると見てきたのです。そして、自分の欲や怒りに駆られないで、神様の導きに従っていったとき、イサクは祝福にいたったのです。
 ・・・イサクが欲に駆られて不当な要求をするペリシテ人たちとあえて争わないで、神の御心を信じて進んでいったとき、彼は最終的に谷あいの狭い場所から、広い場所へと導かれていったのは神様の祝福でした。主にしたがう道は、目先損をしたように見えても、最終的な祝福と勝利にいたる道なのです。捨ててこそ得ることがあるのです。
  この信仰をイサクはやはり父アブラハムから学んだのでしょう。エジプトから帰ってきたとき、アブラハムと甥のロトとの使用人たちの間に争いが起こりました。草地や水場おめぐっての争いでした。このときアブラハムは、ロトにこの地での選択権を優先的に譲りました。そして、ロトは欲望によってわが身を滅ぼす道へと進んでいってしまったのです。そして、一見、損になる選択をした父アブラハムを神様は最終的にすべての面で祝福されました。もちろんこのときイサクはまだ生まれていませんでしたが、アブラハムのこうした信仰に貫かれた生き方を、イサクは学んでいたのでした。この井戸掘りの忍耐と希望は、父アブラハムを超えたかもしれませんね。


3 主があなたとともにおられるのを見た

 そして、最終的にイサクの歩みは生ける神をあかしすることになりました。勝利のあかしとしての出来事は、26節から33節に記されています。

  26:26 そのころ、アビメレクは友人のアフザテとその将軍ピコルと、ゲラルからイサクのところにやって来た。
26:27 イサクは彼らに言った。「なぜ、あなたがたは私のところに来たのですか。あなたがたは私を憎んで、あなたがたのところから私を追い出したのに。」
26:28 それで彼らは言った。「私たちは、【主】があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。
26:29 それは、私たちがあなたに手出しをせず、ただ、あなたに良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないということです。あなたは今、【主】に祝福されています。」
26:30 そこでイサクは彼らのために宴会を催し、彼らは飲んだり、食べたりした。
26:31 翌朝早く、彼らは互いに契約を結んだ。イサクは彼らを送り出し、彼らは平和のうちに彼のところから去って行った。
26:32 ちょうどその日、イサクのしもべたちが帰って来て、彼らが掘り当てた井戸のことについて彼に告げて言った。「私どもは水を見つけました。」
26:33 そこで彼は、その井戸をシブアと呼んだ。それゆえ、その町の名は、今日に至るまで、ベエル・シェバという。

この地の王アビメレクと将軍ピコルは、父アブラハムのときと同じように(創世記21:22−34)、イサクに対して平和条約を結びに来たのです。アビメレクは、イサクの一族に意地悪をして井戸を次々に取り上げました。リベカを妹と偽ったイサクに対しての腹いせでもあったのでしょう。そして、井戸のことで言いがかりをつけると、大事な井戸を放棄して行くイサクを見て、最初アビメレクは「やっぱり意気地のないやろうだ」とイサクを侮ったに違いありません。ところが、井戸をどんなに奪い取っても、たちどころにイサクは新しい井戸を掘り当ててしまい、祝福が続いてゆくのです。それを見て、アビメレクは恐ろしくなったのでした。「ああ、神がこのイサクとその一族とともにいる」という事実に気づいたのです。それで、この一族に手を出したら、神ののろいを受けるに違いないと思って、平和条約を結びにきたのです。29節の「それは、私たちがあなたに手出しをせず、ただ、あなたに良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないということです。」と、どの口がそんなウソを平気で言うのかと思わせられますが、イサクはおとなの対応はアビメレクを責めることはしません。余裕を持って、彼らを十分にもてなして帰すのです。
「私たちは、主があなたとともにおられることをはっきり見たのです。」これほど素晴らしい証があるでしょうか。私たちには、天地万物を造られた神が味方としてついていてくださるのです。

むすび
私たちキリスト者の人生にも、照る日、曇る日、雨の日があります。イサクのように、ときに飢饉のために信徒でない人の軒を借りなければならないというときもあるでしょう。そういうときには、「クリスチャンなのに、たいしたことないね。神様どうしたの?」と意地悪なことを言われてしまうかもしれません。けれども、どんなときでも、神様は私たちと一緒にいてくださるのです。神を見上げて歩んでいるならば、目先のことでなく、長い目で見られていると、「神はあなたがたとともにいることを私たちは見ました」と言われる日がきっと来ます。あせらず、たゆまず、主を見上げて、一歩一歩あゆんでゆきましょう。