苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

同じ場所で井戸を掘る

「こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。』(創世記26:3)

イサクは「あれは私の妹です」と答えた。(創世記26:7)

イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った。(創世記26:18)

彼らは言った。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。」(創世記26:28)

 イサクの記事を読んでいると、デジャヴュを感じる。「こんなこと、前にもあったなあ。」と。実際、少しもどって父アブラハムの記事を見てみると、同じようなことがあったことがわかる。カナンの地をききんが襲ったとき、アブラハムは家族を連れてゲラルのアビメレクのところに身を寄せる。だが、妻が美しすぎるので、妹と偽って、我が身を守ろうとして、それが発覚して異邦人たちの前で恥をかく。しかし、やがてその地で生活を営むうちに、神の祝福が次々とアブラハムとその一族にくだるのを見たアビメレクは将軍を伴って、彼と平和条約を結びにやってきていう。「我らは、主があなたとともにおられることをはっきりと見た。」
 イサクはアブラハムの写しである。アブラハムに対して結ばれた主の約束を継承し、その祝福を継承しただけでなく、アブラハムの持っていた性格的な弱さをもイサクは継承した。イサクは、それを自覚的に努力して継承していたことは、次々と父が掘った井戸を掘りなおすということに現れている。実際、井戸水というものがあふれる場所は決まっていて、100年たとうが1000年たとうが変わらない。だから、乾燥地帯では同じ場所に都市が築きなおされて丘ができ、深い深いところに井戸があるという現象が見られるのだと以前に教わったことがある。
 信仰にはアブラハムのようにフロンティアに旅立つパイオニアという面が一つにはある。だが、もう一面、先人の井戸を掘りなおすという面がある。水は同じところから湧き出るものなのだ。同じ柳の下にドジョウはいないが、古井戸の下にはこんこん々と湧き出す泉がある。