苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神は笑う

創世記21:1−7
2016年11月6日

21:1 【主】は、約束されたとおり、サラを顧みて(パカド)、仰せられたとおりに【主】はサラになさった。
21:2 サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いアブラハムに男の子を産んだ。
21:3 アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。
21:4 そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。
21:5 アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。
21:6 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」
21:7 また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」

1 主は約束されたとおり

 主がアブラハムに子を与えると約束を与えてくださったのは、もう25年も前、カランを旅立てとお命じになったときでした。あのときアブラハムは75歳でした。

12:1 【主】はアブラムに仰せられた。
  「あなたは、
  あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
  わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
  あなたを祝福し、
  あなたの名を大いなるものとしよう。
  あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
  あなたをのろう者をわたしはのろう。
  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。」創世記12章1−3節

 あれから実にいろいろなところを、アブラハムと妻サラは通されました。約束の地に到着するとまもなく大旱魃と飢饉に襲われて、彼らは一族郎党ともどもにエジプトへと逃げましたが、それは神の約束を捨てようとする間違いでした。妻サラの胎はあやうくエジプトの王に汚されるところでしたが、主が守ってくださいました。
 悔い改めて、約束の地に帰ると、甥のロトが欲にかられてアブラハムから離反して行きました。やがてロトはソドムの住人となりますが、それゆえに、東方メソポタミアからやって来た軍隊にロトと家族は捕虜とされてしまいます。アブラハムはそれを救出しました。
 その後15章で、主は、アブラハムが自分のしもべエリエゼルを養子に迎えて家督を譲れというのが主のみこころでしょうかと尋ねる祈りをすると、主は、いやあなたから出る実の子が相続人となるのだとおっしゃいました。
 16章、しかし、それを伝え聞いたサラは、自分はすでに女のものが止まっているので、これは、夫が子種がなくなる前に借り腹をした実子を得なければならないと考えて、夫に自分のはしためハガルを与えて、イシュマエルを得るのです。しかし、これは神のみこころではありませんでした。
 17章、18章になると、ついに主はアブラハムと妻サラに現れて、あなたたちから生まれる実の子が、アブラハムの相続人となるのであり、彼の子孫から世界のあらゆる民族は祝福されるのだと神は仰せになり、割礼の儀式までのお与えになったのでした。アブラハムと妻サラは、この約束を当初、どうしても信じることができずに笑ってしまったのですが、神はこれは本当なのだと念を押して、その子の名はイサクだよと予め告げてくださったのでした。そして、主は「来年の今ごろ、定めたときに、あなたのところにもどってくる。そのとき、サラには男の子ができている。」(18:14)とおっしゃったのです。
 このお言葉の後が、また、激動の日々でした。約束の翌早朝、未明、神はソドムの町を天からの硫黄の火によって滅ぼしてしまわれたのです。ソドムの惨状を見て、甥のロトを失ったと思ったアブラハムは、絶望的なまた恐ろしい気分に捕らわれてしまって、神に背を向けて、この地を去って、南に下って、ネゲブに引っ越します。そして、そこでエジプトに下ったときと同じ罪を犯してしまったのでした。妻サラを王に売り渡して、わが身の安全をはかるというみっともない罪でした。しかし、それにも拘わらず、主がアブラハムを神の器として選んでおられることを明らかにされたのでした。これが先週のメッセージでした。
 ネゲブの地に住むことを許されて、平穏な日々がアブラハムと妻サラと一族にもどってきました。そんな日々の中でこの100歳と90歳の夫婦は、主が生きておられること、主が約束されたことは必ず実現することを信じることができるようになったのでした。そして、サラはその胎に子を宿したのでした。人間的には、まったくありえないことでした。しかし、主はその約束を実現させたのです。

21:1 【主】は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに【主】はサラになさった。 21:2 サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いアブラハムに男の子を産んだ。

 主は真実なお方ですから、ご自分の約束をたがえることは決してできないのです。


2.神は笑う

 さて、二人は、神様が予め息子に与えてくださった名をわが子に付けました。

21:3 アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。

 イサクという名は、「彼は笑う」という意味です。日本風に言えば、「笑くん」とか「笑太郎くん」という意味の名前です。クリスチャンはきまじめな人が多いので、自分の子に笑うなどという名前を付けようとは思う人は少ないでしょう。「イサク」という名を、漢字にして、伊藤の伊と作るで「伊作」とか、井戸の井と作るで「井作」という名の二代目クリスチャンはいますが、「笑くん」と言う人は知りません。でも、自分の孫が与えられたら、「笑くん」とつけてもらいたいものだ、と思ったりします。
 さて、笑うというのは、誰が笑うのでしょうか。最初、主からイサク誕生を告げられて、父アブラハムが、そんな馬鹿なと思って笑いました。悲しい、不信仰な笑いでした。妻サラもまた、同じように、石女としての悲しい不信の笑いをしてしまいました。しかし、二人のうちに主の真実を信じきる信仰が与えられ、子を恵まれて十月十日がたつうちに、ますます主の真実に対する喜びと確信があふれてきて、あの悲しみ、あの不信は消え去って、喜びが内側からあふれるようになってきたのです。
 夫婦だけではありません。一族の誰もが、「アブラハム様、サラ様にお子様が与えられたよ」「あの爺さん、婆さんに、子が与えられたよ」と笑ったのです。
 しかし、誰よりも高らかに笑ったのは、誰あろう。神ご自身でした。

21:6 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」
21:7 また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」

 「サラよ、アブラハムよ、お前たちはわたしの約束を信じられずに笑ったな。だが、見よ。わたしは約束を成し遂げたのだ。今度は、わたしがお前たちの不信仰を笑い飛ばすばんだぞ。ワッハッハッハ」と。それは、天に響く笑いでした。信仰の父アブラハム夫婦であっても、不信仰に陥り人間的な小細工をして失敗し、がっかりして、失望してしまうことがありました。しかし、人間の不信仰も、小細工も、失望も、神はすべて笑い飛ばして勝利を宣言なさるのです。


3.割礼

 天に響く神とみ使いたちの勝利の大笑いを聞くような思いで、アブラハムは主との契約をしっかりと思い起こしました。主は、この相続の契約において、アブラハムの民に属する男子はすべて割礼をほどこしなさいというご命令をくだしておられたのです。

21:4 そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。

  割礼とは、神の民のしるしであって、新約の時代でいう洗礼式にあたります。子どもの割礼という意味では、私たちの教会では献児式にあたります。神の救いの契約は、確かに一人ひとりを大切にするものですが、同時に、それは子々孫々にまで及ぶものなのです。ヨーロッパ近代を経由したキリスト教個人主義的な色彩が強いものであるために、また、この日本でクリスチャンになったということは家から霊的に独立する個人の決断を要するために信仰は個人のものというイメージを抱きがちなのですが、聖書的な信仰は、実は、家族的なものです。あなたが真実求めるならば、あなたの子々孫々にまで、神は祝福を与えようと用意していてくださるのです。ペンテコステの日、使徒ペテロは悔い改めてイエスを信じるようにと呼びかけて言いました。

「なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」(使徒2:39)

 神が祝福を用意していてくださるのです。私たちは、自分ひとりのことでなく、子のために、孫のために、その救いを祈ることが大事なことです。

結び
 人間の弱さ、不信仰、失望、愚痴にもかかわらず、神は勝利の笑いをもって私たちを祝福してくださいます。主の恵みに感謝し、約束にもう一度固く立って生きてまいりましょう。