苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ブレーズ・パスカル『定本パンセ』(松浪信三郎訳・註)

 「君は、寄らば斬るぞ、ですね。卒論にするには、とりあえず、この著者の言っていることはすべて正しいはずだと思える対象を見つけるほうが、実りある学びができますよ。」と飯塚勝久先生がおっしゃいました。当時、哲学専攻に移った私は毎週一回、先生の研究室を訪れては、その週に読んだ哲学書の感想をお話しするということをしていました。近現代の思想史をたどりながら哲学方面の本を、ほんとにわからないわからないと呻きながら読んでは、F・シェーファーのやたらとよく切れる単純きわまりない刀でばっさばっさと斬っていたからです。まあ近代思想史というのは、キリスト教からの独立・否定の歴史ともいえますから、どうしてもそうなります。
 それで、切り倒す対象でなく、学びうる対象をさがしました。近代哲学の祖はデカルトですが、デカルトに対峙し、デカルトの欠陥を見抜き、デカルトよりもはるかに自然科学の方法の本質を理解し、かつ、現代の実存の問題にまで届く射程をもっているパスカルで卒論を書くことにしました。
 『パンセ』は、ポールロワイヤル修道院から依頼されて彼が構想していた「キリスト教弁証論」のための膨大な草稿断片の束です。その断片を主題別に配列したのが、ブランシュヴィク版(B版)といって、もっとも普及したものです。これに対して『定本・パンセ』はラフュマ版(L版)の翻訳です。これはポールロワイヤルの修道士たちに、とりあえず彼が構想する弁証論の概要紹介をするために、全体の三分の一程度を分類し、残りは未分類のままにしたものです。
 3年生の晩秋から『パンセ』と格闘して、4年生、キャンパスがもみじし始めたころ、午前4時まだ薄暗いときにむくっと起き上がって「あ、多様性だけでは存在は断片化して意味を失い、さりとて、統一性だけでは存在は等質化して意味を失う。意味ある存在とは、多様性だけでもなく、統一性だけでもなく、多様性と統一性なんだ。」と悟りました。

 

f:id:koumichristchurch:20200507210012j:plain