19世紀の思想界は進歩史観の時代だった。人類の歴史はより良い方向に向かっているという考え方である。コント、ヘーゲル、マルクス、そしてダーウィン主義思想家たちがその典型である。彼らは、理性の光が閉ざされた中世から抜け出て、近代は理性の時代となり、科学技術の発展、産業革命によって、欧米文明は世界を席巻して人類の歴史は華々しく進歩していくものだと考えたのである。しかし、20世紀を迎えて二つの大きな世界大戦を経験して、進歩史観は崩壊した。人類はその神に背を向けた理性によって作り出した文明の利器をもって、お互いに殺し合い文明を破壊し、全地球を滅ぼしてしまうのではないか、ということに気づいたからである。
というわけで、思想史的に言えば、進歩史観は19世紀の遺物である・・・と私は思っていた。だからこそ、時を超えて普遍的な真理を告げる神のことばである聖書にしたがって生きることの確かさ、素晴らしさを実感しているのである。ところが、いまだに人類は進歩していくのだという19世紀の迷信に捕らわれている人たちがいる。そういう人々の口癖は「そんな考えは古いよ」である。このおまじないさえ唱えれば、相手の主張を黙らせられると信じて疑わないのである。そうして、世間の風潮、この世の流行に乗り遅れまいと一生懸命である。
若者が年寄りに向かって「そんな考えは古いよ」と言っているだけではない。神学者・聖書学者と呼ばれる人々の中にも、そういう新しいもの好きの人々が結構いるようだ。ポストモダンの主観主義・相対主義・多元主義の泥沼の中にある現代思想の影響を受けた解釈学の影響を受けた最新の聖書解釈が素晴らしいと思い込んでいる人々である。聖書信仰に立っていない学者たちがそう言うなら、話はわかるのだが、大昔に書かれた聖書を「信仰と生活において誤りのない神のことばである」という信条を信奉しながら、新しい物好きというのはいただけない。
聖書信仰に立つ者にとって、真理の指標は、その学説が新しいか古いか、学会の流行にかなっているかどうかではなく、啓示された神のことばである聖書にかなっているかどうかなのである。
「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」ローマ12:2