「拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」詩篇11:3
私が東京基督神学校の学生であった時代、宇田進教授がチャペルで上記のみことばを引いて聖書信仰の重要性について説教をされたことがあった。聖書信仰とは、「聖書はすべて誤りなき神のみことばであり、信仰と生活の唯一の基準である。」(JEA信仰基準第一条)という信仰である。宇田師は、福音派の拠り所はこの聖書信仰であって、この拠り所が壊されるならば、福音派は壊れてしまうのだと話された。聖書信仰は生意気な神学生にとって当たり前のことであったから、当時「何をいまさら・・・」と聞いてしまったのだが、今、福音派がガタガタと揺れて壊れてしまいそうな状況において、改めて、宇田師が話された「拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」(詩篇11:3)というみ言葉の重要性を思わされている。
もうここ二十年くらい、日本の福音派はNPP、特にN.T.ライトの書物を巡ってグラグラしている。また最近、LGBTQを巡ってさらに福音派は二分してしまいそうな状況である。一見したところこれらは別々の出来事であるが、実際には根っこは一つである。二つの混乱の根本原因は、福音派の神学校や牧師・教師や出版社が「聖書はすべて誤りなき神のみことばであり、信仰と生活の唯一の基準である。」という聖書信仰の重要性を十分認識していなかったことにあると思われる。
N.T.ライトは「聖書はすべて誤りなき神のみことばであり、信仰と生活の唯一の基準である。」という信仰に立ってはいない。これは決して根拠のない誹謗中傷ではなく、ライト自身が率直に著書の中に述べている明白な事実である。聖書はパウロがユダヤ教パリサイ派のヒルレル派に属していたと述べているが、ライトは主著『使徒パウロは何を語ったか』(いのちのことば社、2017年)第二章において、パウロは実はパリサイ派の中のシャンマイ派に属していたのであると主張しているからである。
パウロ自身はピリピ書において次のように明言している。「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。」(ピリピ3:5,6)そして、使徒の働きの中でもパウロは自分がパリサイ派内のヒルレル派の大学者ガマリエルのもとで律法を学んだと言明している。「私は、キリキアのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しく教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。」(使徒22:3)ライトは、「神に対して熱心」ということばから、明瞭なパウロの主張を否定するのである。
ライトが聖書に明記されたパウロの言明を否定するのは、彼の考える義認に関する新説を成り立たせるためには、パウロにはシャンマイ派に属していてもらわなければ都合が悪いからであろう。ライトにとっては聖書は物差しでなく、自説が物差しとなっているように見える。とは言っても、ライトは聖書が神のことばであることを全面否定しているわけではなく、契約を軸とした神の計画の見方や、文化への視野を提供するから、そうした視点を持たない神学的伝統に属する人々には目新しく魅力的に映るらしい。
LGBTQについても同様のことが今起こっているが、そのことについては、後日詳細に書くかもしれない。
福音派は多様な神学的伝統の諸教派・諸団体が「聖書はすべて誤りなき神のみことばであり、信仰と生活の唯一の基準である。」という絆によって結ばれてきたものである。宇田教授が言われた通り、その絆を緩めてしまえば、バラバラになるのは当然のことなのである。もし福音派を維持することを望むならば、今一度「拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」というみことばに聴き、聖書信仰とは「聖書はすべて誤りなき神のみことばであり、信仰と生活の唯一の基準である」ことを確認する必要がある。