苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中世教会史31 中世の神学 スコラ哲学(6)ボナヴェントゥーラ

7.ボナヴェントゥーラBonaventura(1217年ごろー1274)の霊性

 中世スコラ学の最盛期、トマス・アクィナスと双璧とみなされた。彼の『命題集注解』の英訳はネット参照。http://www.franciscan-archive.org/bonaventura/sent.html
(1)生涯
 ボナヴェントウx−ラは幼少時、重病で命あぶないとき、アッシジのフランチェスコにとりなし祈ってもらい、一命をとりとめた。このときからボナヴェントゥーラとフランチェスコと『小さな兄弟たちの修道会』とのつながりができた。長じてパリに出て学芸学部に学び始める。この時期パリではアリストテレスが神学構築の方法論として取り入れられ始めていた。パリ司教ギョーム(アベラールの師)、アレクサンデル(ボナヴェントゥーラの師)、アルベルトゥス・マグヌス(トマスの師)が先駆者たちである。『小さな兄弟たちの修道会』にアレクサンデルが入会し、ボナヴェントゥーラもフランチェスコ会に修道士誓願をして入会し、アレクサンデルに学ぶ。アレクサンデルの死後、ボナヴェントゥーラが指導的立場に推され、1253年パリ大学神学部フランチェスコ会学院で教授として教鞭をとるようになる。1257年にはフランチェスコ会総長職に選出される。
 フランチェスコ死後30年にして修道会内部に路線問題で分裂が起こりつつあった。彼はフランチェスコの霊的体験のアルヴェルナ山にこもって主との交わりをする。このとき、不朽の名著『魂の神への道程』を記した。
 ボナヴェントゥーラは山から下りると修道会総会で統一的な会の憲法を定め、フランチェスコの大小の伝記をまとめて公式のものとすることで、修道会の分裂問題に解決を与えた。

(2)霊性と神学
 当時、神学界はアリストテレス哲学導入にともない、極端なアリストテレス主義による混乱が生じていたが、立場は異なるがドミニコ会のトマスとともにキリスト教信仰の論理と倫理の弁証にあたった。
 ボナヴェントゥーラは、アンセルムスからアウグスティヌスそして新プラトン主義に淵源を求めた。信仰および神学と、理性および哲学との根本的相違から出発する。『哲学は神学が始まるまさにそのところで終わってしまう。』理性もまた神の賜物としてよいものであるが、理性は神の栄光を仰ぐには足りないとする。彼は被造物を「何か超越的なるもの」の象徴と見たが、これらから神の存在証明をすることは彼の関心の外にあった。神の存在は理性的な証明のことがらではなくて、信仰告白の内容であり賛美することにある。「われわれの心のあこがれは、神を証明することではなく、神を見奉ることである」
 神にいたる三つの道があるが、その目的とするところはトマスがしたような証明ではなく、神のうちに安らぎ、憩うことである。
 第一の道は、神の存在はすべての理性的被造物にとって生得的にあらかじめある真理であるという確信。「確かに、人間には神を完全に把握することはできないが、しかも何人も神の存在に無知であることは許されない。」
 第二の道は、被造物においてその痕跡である神を観想する。それは「証明」でなく、フランチェスコがしたように、小鳥や太陽や月を味わいながら、神を観想する自然的敬虔を意味している。
 第三の道は、神の存在は自ずから証明されていることである。神という語が発せられるとき、最高の真理としての神が存在しないことは不可能である。「もしも神が神であるならば、神は存在する。Si deus est deus, deus est.」アンセルムスと同じ線に立っていることがわかる。

 ボナヴェントゥーラは神学の最終目標は、イエスの十字架の苦難を観想することによる魂の深い眠り、やすらぎに至ることである。「超脱」への道の三段階がある。
第一は「浄化purgatio」であり、自分の魂の惨めな状況を瞑想し、ゆるしの恵みを求める。
第二は「照明illuminatio」真理への透徹。
第三は「完全perfectio」。罪ゆるされてキリストとの一致にいたる。
 「神への接近が可能になるのは、有限な被造物と絶対なる創造主の仲保者なるキリストをほかにしてない。この神人の十字架の観想において魂は確かさと安らぎを見出し、キリストとともに十字架の上で眠りに陥り、至福の暗黒のなかで知性もその働きを中絶する。この無知の知にあって目さめているのはただ純然たる愛そのものだけである。こうして魂は神の愛の体験において神と一つとなる。」(出村彰『中世キリスト教の歴史』p253)

「我々の精神は、自己の外に、痕跡を通しかつ痕跡のうちに、また自己のうちに、像を通しかる像のうちに、そして最後に自己の上に、我々の上に輝いている神的光の類似を通しかつその光そのもののうちに・・・神をしかと観た後に、ついに第六の段階として・・・イエス・キリストのうちに、・・・この感覚的世界のみならず、自己自身をもまた超越し超出していく。この過ぎ越しの旅路において、キリストは道であり、門であり、はしごであり・・・秘儀なのである。」(魂の神への道程7章1節)