リチャード・ヘイズが『イエス・キリストの信仰』で、ルターが義認の概念を拡大して、パウロ書簡にあるその他すべてを、義認で包括しようとしたことを批判しています。確かに、教会と国家の捉え方なんかも、福音担当の権威と律法担当の権威とか言っていて、おもしろいなあと思いました。
でも、こう書いているヘイズ自身、十字架の死にいたるまで父に従順だった「イエスの真実への参与」でもって、信仰義認まで否定(?)包摂してしまおうとしています。ローマ書でいえば、文脈を無視して、6章で3章をむりやり解釈しようとしている。組織神学的に言い換えると、聖化論に義認論をのみこませようとしている。結局それは、義認を聖化から区別して、信仰の確信をあきらかにし、良心の不安に解決を発見した宗教改革の成果の否定です。それでいいんですか。あかんでしょ。まあ、共同訳というのは、もともと、そういうことでしょうが。
男の子がナイフを手に入れたら、なんでも切りたくなってしまうような心理かなあ。学者にはありがちですよね。私が発見した一つの原理で、全部見通せたと自慢したいという思い。