苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「キリストの真実」か「キリストを信じる信仰」か?(ローマ書1-8章概要から抜粋)

ローマ3:22

・新改訳2017

「すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。」

・聖書協会共同訳

「神の義は、イエス・キリストの真実を通して、信じる者すべてに現されたのです。そこに差別はありません。」

  pistis Iesou Christouは英語にそのまま訳せば、faith of Jesus Christとなる。文法的にいえば、この属格は「イエス・キリストの真実(信仰)」と主格的属格にも、「イエス・キリストを信じる信仰」と対格的属格にも訳しうる。love of Godは「神の愛」とも「神を愛する愛」とも訳せるのと同じ。いずれが正しい訳語であるかを決定するのは、文脈である。聖書翻訳においてはローマ書3章22節pistis iesou christouは、長年「イエス・キリストを信じる信仰」と訳されてきた。

 ところが、カール・バルトは『ロマ書』で「キリストにおける神の真実」と訳した。19世紀の自由主義神学は、人間が愛の人イエスを模範としていわば「下から上へ」向かって行けば神の国は到来すると教えたが、その無力を痛感したバルトは、神は絶対他者であり、神の国は「上から下へ垂直に」到来するのだと主張した。その神学が、「人がキリストを信じる信仰」でなく、「キリストにおける神の真実」という訳語を産んだ。だが、これは信じなくてもキリストのゆえに義と認められるというバルトの万人救済論が背後に隠れている翻訳でもある。

 その影響であろうか、近年、E.P.サンダースによってローマ書3:22「ピスティス・イエスー・クリストゥ」について「イエス・キリストの真実によって」という訳語が提案され、他にも同調者が現れた。新改訳2017は脚注にこれを入れ、聖書協会共同訳は、脚注でなく本文に、この説を採用した。「イエス・キリストを信じる信仰」と「イエス・キリストの真実」と、どちらが正しい訳語だろうか?

 伝統説「イエス・キリストを信じる信仰」という訳語はキリストの血による宥めのささげものを義認の根拠としつつも、義認を受け取る手段としての信仰の重要性も表現している。他方、新説「キリストの真実」という訳語では義認におけるキリストの重要性のみが強調されて、信仰の重要性は軽んじられることになる。

 

パウロはガラテヤ書の類似の文脈で、pistis christouを「キリストを信じる信仰」の意味で用いている。

・ガラテヤ2:16「 しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって(dia piteos Christou Iesou)義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました(episteusamen つまりpisteuoの過去形)。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって(dia pisteos christou)義と認められるためです。」

  ここには、2回dia pisteos Christouが出てくる。ところが、同じ節の中で動詞形piteuoの過去形があって、これは当然「信じた」と訳される。だから、前後のpistis Christouもまた、「キリストの真実」とは訳すことは不可能である。つまり、パウロはここで義と認められるためには、律法の行いでなくキリストを信じる信仰が重要だと述べている。

 

②ローマ書3章22節から4章に展開する文脈上から、「pistis christou」を「キリストの真実」と訳すことは不可能である。

 確かに、文脈から切り離してローマ3章22節だけ日本語で見れば、「神の義は、イエス・キリストの真実(ピスティス)を通して、信じる者すべてに現されたのです。」という思想自体はまちがいではない。しかし、ここをそのように読むのは、ギリシャ語本文と文脈からして無理である。

 そもそも、当該の3章22節の中においてさえ「eis pantas pisteuontas」とあって、こちらは「信じるすべての人に」と訳す以外方法はない。同じ節の中で、名詞形と動詞形の違いはあるにせよ、片方は「真実」と訳し、片方は「信じる」と訳し分けるのは翻訳者の予見が入りすぎである。

 また少し広く文脈を見れば、3章20節から、律法の行ないと信仰と義認についての議論が始まっており、さらに3章27節以降を見れば、「行いの律法(原理)」と対比して「信仰の律法(原理) ノモス ピステオス」と訳されている。これは「真実の律法」ではまるで意味が通らない。28,30,31節においても全てピスティスは「信仰」としか訳しえない。訳しえないので、なんと聖書協会共同訳は、27節の前で文脈を断ち切るために、ここに小見出しを挟み込むという禁じ手をあえて行っている。つまり、小見出しによって文脈を操作して、pistis Christouの訳語を「キリストの真実」としたことに疑義が挟まれないようにしたのである。さらに4章へと進めば、アブラハムダビデが行いによって義と認められたのでなく、信仰が義と認められたというサンプルとして議論が展開する。ここでもpistisは「信仰」と訳すほかない。つまり3:20節から4章末尾まで、義認に関して、信仰と律法の行いの話題が論じられているわけで、その中でpistis christouということばがあるのだから、これを「キリストを信じる信仰」でなく、「キリストの真実」と訳すのはアウトオブコンテクストなのだ。

 結論。救いにおける神の主権的恩寵、義認の根拠であるキリストの宥めのささげ物はいうまでもなく重要である。しかし、パウロは、ローマ3:21ー4章末尾の文脈においては、神の恵みを受け取る手段としての行いでなく信仰が必要だと説いているのである。したがって、伝統説「キリストを信じる信仰」が正しい翻訳である。文脈を見れば迷うような訳語ではないのだが、翻訳者があらかじめ主張したいことがあって間違えたのであろう。

*ローマ書1-8章概要はこちら
https://ameblo.jp/caelnouta/entry-12465094608.html