苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

律法の三用法について

 近年は、「和解の福音」とか「ホーリスティックな福音」いう言い方で、聖書に関する教えならばなんでも「福音」と呼んでしまうのが流行りのようですが、実は、私はいただけないなあと感じています。マルティン・ルターは、「律法とは人間がすることであり、福音とは神がしたことである。」と言ったそうです。出典は未確認ですが、ルターらしい表現だと思います。今回は、律法の用法について、少しメモしておきたいと思います。

 律法には三つの用法があると言われます。一つは社会的用法、一つはキリストに導く養育係的用法、一つはキリスト者が生きる規範としての用法です。

 社会的用法というのは一般恩恵としての用法であって、社会一般に対して正義とはなんであるかを知らしめる用法ということです。世の中がノアの時代のように、悪へと常に傾いている状況にあって、教会は神の正義の基準はこういうことですと発信し続ける必要が増しているのではないかと私は考えています。

 養育係的用法と規範的用法は特別恩恵的な用法で、キリストに導く養育係的用法は、ガラテヤ書3章からの言い方です。「22,しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。23,信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来たるべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。24,こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。」つまり、人間に罪を自覚させ、自分では自分を正しくすることはできないことを悟らせて、救い主キリストを信じ義と認められるように導く働きです。ローマ書でいえば、3章に説明されている律法の用法です。

 規範的用法というのは、キリストにあって神の前に義と認められ、子とされた者が、神のみこころにしたがって祈りつつ生きていくときの規範に当たるものです。言い換えると、聖化の上でのガイドラインです。これは、ローマ書でいえば、12章以降で説明されているキリスト者の生き方です。

 では、これらを教えるに当たっては、いちいち規範的用法だ、養育係用法だ、一般的用法だと対象別つまり未信者・求道者・信者に区別して説明しなければならないのでしょうか。そういう必要はないのではないかと考えるようになっています。聖書における人間がすべきこと、してはならないこと、つまり律法を説いて行けば、聖霊の御働きによって、ある人には規範として聞き従うように聞こえ、ある人にはキリストに導く養育係として聞こえて自分の罪を悟らせ、ある人には正義とはそういうものなのだと理解させるのであるというふうに考えるのです。