苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン4月21日  キリストとともに死んで復活を

詩篇118:21
われ汝に感謝せん なんぢ我にこたへてわが救となりたまへばなり(文語訳)

わたしはあなたに感謝します。あなたがわたしに答えて、わが救となられたことを。(口語訳)

私はあなたに感謝します。あなたが私に答えられ、私の救いとなられたからです。(新改訳)

わたしはあなたに感謝をささげる、あなたは答え、救いを与えてくださった。(新共同訳)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 翻訳上の異同には格別のことはない。ただ新共同訳は例のごとく接続のことば(キー)を訳さないという特徴があるだけ。
 特徴は文脈にある。この21節には、次のくだりが続いている。新改訳で書くとー
「家を建てる者たちの捨てた石。
それが礎の石になった。
これは【主】のなさったことだ。
私たちの目には不思議なことである。」
 新約聖書のなかでしばしば引用されるメシヤ預言である。「家を建てる者たち」とは、家とは石造りの神殿を意味し、それを建てる者たちとは神殿礼拝を司る祭司階級長老たちを意味している。神殿運営・イスラエル宗教の運営を、家作りに譬えている。
 彼らが捨てた石とは、イエス・キリストを指し、それが捨てられたとはイエスが祭司・長老たちに捨てられてエルサレム城外の十字架で殺されたことを意味しえいる。しかし、それが礎の石になったとは、イエス・キリストが新約の時代の世界教会の礎となられたことを意味している。これは、まことに不思議なことである。
 というわけで、詩篇118:21における「われ」「わたし」「私」は、キリストを指している。ゴルゴタの丘で人々のあざけりのなかで殺されたイエスが、父なる神の注がれた御霊によって三日目に復活されたことを指している。
 そして、キリストを信じる者の人生において、同じことが起こる。だから、私も主イエスとともに、神に感謝をささげよう。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」ガラテヤ2:20