苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

還暦同窓会の案内

 高校の還暦同窓会の案内をいただいた。4月生まれの私はすでに還暦+1になっているのだが、今年になって還暦同窓会をするのは、きっと昨年度中であれば、「私はまだ還暦じゃないわよ」と無駄な抵抗をする人々がいるから、同級生がみな還暦を迎えた今年になってから同窓会を企画してくださったのであろう。

 案内をくださった方もメールに書いていらしたが、私が子どもの頃イメージしていた60歳と自分自身がなってしまった現実の60歳との落差に驚いている。私の子どものころは、55歳が定年、隠居生活に入るという今では信じられないような時代だった。還暦は定年退職からすでに5年を経ているのであるから、立派なおじいさんである。また、今の60歳と当時の60歳では、その人生で経てきた経験の厚みが圧倒的に違うという気がする。戦前、戦中、戦後を生き抜いて来た60年と、高度成長期を生きて、そのバブルがはじけたとはいえ、平穏無事に生きてきた60年とであるから。

 今は多くの職場は60歳が定年退職の年齢であるが、ほとんどの牧師はそうではない。そもそも牧師という務めの場合、大学を出て神学校で3年間学んで、補教師となってとりあえずスタートして、最短3年間をへてから按手を受けてということだから、聖礼典を執行できるのはだいたい30歳前後であるから、10年ほど一般の務めとはずれている。実際、そのくらいでないと牧会者としては自分自身不安である。ある人が書いていたのだが、たましいとの対話という牧師固有の働きという意味では、その円熟は65歳から70歳くらいではないかということである。あるいは、そうなのかもしれない。さまざまの人々と出会い、耳を傾け、喜びも悲しみも痛みを共有して、自分の無力を知って、神の恩寵にのみよりすがって、たましいを導くというのは、今の時代であるとそのくらいの年齢なのだと、その著者は言いたいのだろう。とはいえ、年を取ると悪い意味での「なれ」も出てくる危険もあるから、自戒が必要でもある。聖書には、経験豊かな預言者の過ちの例も出てくる。

 また、小規模な教会がほとんどである日本の場合、実際の牧師の働きは、週に二つか三つの説教準備、面談ということだけでなく、何から何までとは言わないまでも、相当いろいろなことを牧師と牧師の妻がやっている家内制手工業という実情だから、個人差はあるけれども年を取ると体力的に厳しいというのが現実であるし、若い世代への働きというと、センスのずれということが生じることは否めない。ある団体は65を一応の定年として、あとは本人のやる気と健康状態と教会の必要と相談しながら一年ごとに更新するようである。老化の速度は驚くほど個人差がある。

 還暦同窓会の方は土曜日に組んでくださったので、神戸に住んでいれば出席の可能性はあるのだが、こちらは苫小牧。残念ながら、出席はかなわない。