昨日午後、高校の同窓会の方たち3人が苫小牧の教会を訪ねてくださった。うちお1人は同窓会のホームページに卒業生に対するインタビュー記事を載せるためである。
最初に、「政治のことと宗教のことはあまり載せないという方針なんですが、水草さんにとっては信仰とは生きることそのものでしょうから。」というTさんの前置きに始まったインタビューだった。私は「そうです。生きることはキリスト。死ぬこともまた益です。」と答えた。私からキリストを取ったら何も残らない。幸い、インタビューしてくださったTさんは妹さんが敬虔なクリスチャンなので、そのところを理解していてくださった。
それで、高校時代に考えたこと、モリアオガエルの魅力、夢、挫折、キリストとの出会い、献身、パスカル、多様性と統一性と三位一体の神、そして、最後に今、牧師としての務めをしている喜びなどをいろいろをありのままに話した。そして、件の「字のない本」の話。
1時間20分ほどのインタビューというか対談が、わずか2千字にどのようにまとめられるのだろう。どう考えても難しい。でも、少々楽しみ。
<追記 同日>
今朝、顔を洗っていると、「エパタ」ということばが浮かんできた。エパタとは主イエスがガリラヤ湖にほどちかいデカポリス地方に来られたとき出会った聾唖の人のために、言われたことばだった。その意味は「開け」。
中学、高校時代を振り返ると、どういうわけか私は狭いところに自分を閉じこめていた。主イエスに出会ってからの自分の歩みを振り返ると、ああ、主は私のためにも嘆息して「エパタ」と言ってくださったのだと感じる。
イエスは天を見上げ、深く嘆息して、その人に、「エパタ」すなわち、「開け」と言われた。(マルコ7:34)