苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

子とされた恵み

「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。」ローマ8章14-17節

 

 クリスチャンになる前、罪人でした。贖い主キリストを信じて罪ゆるされ、キリストのものとされて自由と喜びを得ました(ローマ1章から5章11節)。そして、「罪(悪魔)」から解放されキリストのもの、義の奴隷として(6章)、律法からも解放されて聖化の生活を送り始めたのに(7章前半)、律法にこだわりすぎているうち、あの自由を見失って奴隷の恐怖に陥ってしまい、苦悶することがあります(7章後半)。そして、8章冒頭で、もう一度キリストにあって義とされ御霊を受けたという原点に立ち返り、子としてくださった恵みに生きることについて、彼は力説します。父なる神から、おまえは私の子だ、神の家族の一員だと愛され、その愛の期待に応えて、キリストと共同相続人として、使命に生きていくのです。

 今度の土曜日、北海道聖書学院のオープンデーで、今回はチャペルの御用にあたるので、このみことばをおわかちしたいと思っています。ローマ書理解、神の救いの計画全体のかぎとなる箇所です。

 

 ちなみに、ローマ書8章までのアウトラインについて

 ローマ書は第一部1章から8章で救いの問題を、第二部9章から11章でイスラエルと異邦人から選ばれた者が一つの神の民とされる計画を、第三部12章以下で倫理を扱っている。筆者はローマ書1章から8章のアウトラインを下記のように理解する。

第一部 教理篇

1章「信仰によって義とされる」

<ローマ1:18-4章末>

 異邦人とユダヤ人はともに神の前に罪人であり、律法の行いによっては誰も神の前に義と認められない。神は、キリストの血による宥めのささげ物という刑罰代理の贖いを根拠として、罪人を義と認める(3:21‐31)。4章に入ると、信仰義認のサンプルとして、ダビデアブラハムが取り上げられ、アブラハムの相続の契約が語られる文脈においては、義認がキリストの死と復活に関係すると述べられる。

<ローマ5:1-11>

 キリスト者は、過去にキリストにあって義とされ、それゆえ現在は神との平和をもち、未来は審判で神の怒りから救われる。

 

2章「キリストに属する者として生きる」 

<ローマ5:12-21>二人の代表

 アダムとキリストは人類の二人の代表である。

<ローマ6:1-7:6>罪からの解放

 キリスト者は、代表キリストに属する者として「罪」に対しては死んで「罪」の奴隷状態から解放され、神に対しては義の奴隷として新しい御霊によって生きる。なおここでいう「罪」は単数形で神と対置されて、擬人的に表現されている。

<ローマ7:7-25、8:15>

 律法から解放され御霊によって生きるのがキリスト者だが、律法に捕らわれて、かえって「罪」の力に捕らえられて、再び律法と「罪」の奴隷に戻ってしまったかのような恐怖に陥ることもある。

<ローマ7:24-8:27>

 しかし、その時には再びキリストにあって義と認められたという原点に立ち返り、子としてくださる御霊によって導かれて、神の子ども、すなわち、キリストともに被造世界の共同相続人として生きる。

<ローマ8:28―30>

 1,2章総括として、予定・召し・義認・栄光化という救いの順序を総括し、<8:31―39>いかなる被造物もキリストにある神の愛から我々を引き離すことはできないと歌い上げる。