苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

私がキリストに出会うまで

 私がどのようにしてキリストに出会ったのかについて、ここに記しておきたいと思う。私が生まれ育ったのは神戸の須磨区で、小学4年生までは須磨寺町というところに暮らした。目の前に池があり、その向こうは山であり、池の周りが桜並木になっていて、寿楼と延命軒というホテルが建っていた。ちょっとした観光地だった。近所に、日本基督教団の須磨教会の経営する千鳥幼稚園というのがあって、幼い日はそこに通っていた。良い子にはしていたけれど、せいぜい「神様がおるんかなあ」くらいのことでその二年間は終わってしまった。そのキリスト教幼稚園でクリスマス会になると「幸福の王子」の劇をした。なんでキリスト教幼稚園のクリスマスなのに、こんな劇をするんだろうなあと思って、ずっとわからないままにいた。卒園式の日、下村先生が「みなさん、日曜日には日曜学校に来てくださいね」と言われて「はーい」と答えたけれど、日曜学校には一二度行っただけだったと思う。

 そうして、小学、中学、高校時代を過ごしていくことになったが、心の片隅に聖書の神様のことは少し気になってはいたのだろう。末っ子ということもあって、字を読めるようになるのが早かった私は、小学1年生の誕生日4月4日に、母は子ども向きの三冊本を買ってくれた。その中に収められていた子供向きにアレンジされた古事記ギリシャ神話を読んで、この神々と聖書の神はどういう関係にあるんかなあなどとぼんやりと考えたりした。その三冊本の中でほかに気に入ったのは良寛さんの話だった。私の理想の宗教者像は考えてみると、あの幼い日に読んだ良寛さんなのである。それからエジソンの伝記や二宮金次郎の伝記を好んで繰り返し読んだ。といって読書ばかりしているわけではなく、学校から帰ってくると宿題は早々に終わらせて、兄と須磨寺や公園で夕方5時まで遊んで帰ってくるという普通の小学生だった。

 だが、小学・中学・高校と進むうちに、私は進化論の影響を受けてほとんど無神論的になっていた。記憶に残る中で一番古い進化論の知識は、小学校時代に家にあった図鑑のものである。はだかのおじさんたちが焚火を囲んでいるのだが、よく見るとそのおじさんたちにはしっぽが生えているのである。「昔はなあ、人間にもしっぽがあったんや。」というようないい加減なことを、父は話していた。中学生で生物部にはいったころには、私の中で進化論はすでに常識であった。高校の世界史の教師は、相当キリスト教に対して反感を持っている人で、魔女狩りの話、十字軍のことを熱心に教えてくださったせいで、私は決定的にキリスト教会に対して強い反感を持つようになった。そして、岩波新書の『魔女狩り』という本を手に入れて精読し、カトリックの友人Mくんに貸してやるようなことまでしていた。・・・だが考えてみれば、それほどに私はキリストとキリスト教会のことが気になっていたのだろう。

 そんな反キリスト教的な私であったが、聖書とキリストにはなんとなく関心があった。私の父はもともと北九州の人で、戦後、就職で丸紅に就職して大阪に出てきていたが、学生時代の同輩のTさんにヘッドハンティングされて彼が経営するT真珠という会社で営業部の責任をとるようになった。父の取引相手は海外からのバイヤーがほとんどだったようで、よく売れた日は父はご機嫌で「今日は一千万売れた」とか言ってほろ酔いで帰って来たものだった。数少ない国内の取引先に中田実さんという方がいらした。中田さんは、今考えてみると東京に住む無教会の集会の先生で、父あてに「聖書の講解」という白表紙の機関紙を定期的に送ってくださっていたので、本棚に何冊もそれが積まれていた。私は高校生にもなると一応目を通すようになっていった。振り返ってみると、私はその機関紙で初めてルカ伝の放蕩息子の譬を読んだのだった。

 高校二年生の冬、私が生まれた時からいっしょに暮らしていた祖母が風邪をひいて一週間ほど寝込んだが、それをきっかけに祖母が突然いまでいう老人性うつの症状を呈し始めた。家の空気が暗くなり、私は自分の受験勉強を口実にして、あまり祖母にもかかわらないようにして、日曜日も図書館に行っていた。父も兄も、同じように日曜が来てもなるべく家を避けていた。ただ母が一生懸命に祖母の世話をしていた。

 高校三年生の夏休み、私は受験勉強をするために、月曜を除く毎日大倉山の図書館に通っていた。そんなある日、図書館に向かう上り坂にある小さなドリップ専門の珈琲店の前で一人の男性に呼び止められた。「塩狩峠」という映画が無料で見られる。キリスト教の映画だという。ビデオなどない時代、映画が珍しかった。そこで、その日は少々早めに勉強を切り上げて、図書館に来ていた二人の同級生といっしょに大倉山図書館の隣にある神戸文化ホールに出かけた。

 映画は『塩狩峠』。大正時代、北海道の旭川の峠で起きた鉄道事故に取材して作られた小説を映画化したものだった。印象に残ったのは二つの場面だった。一つは、日の暮れかかるころ雪の降りしきる街角で一人の伝道者が、イエス・キリストを紹介していることばだった。「イエスという男は、世にも馬鹿な男で、十字架にかけられて死のうとしている苦しい息の下で、自分をあざける人々のために、『父よ。彼らをゆるしたまえ。そのなすところを知らざればなり。』と祈った。そういうイエスを、私は神であると信じるのであります」と宣言していた。

 もう一つ印象に残ったのは、キリスト信徒となった主人公が乗っていた列車の最後尾の客車の連結部が外れて、塩狩峠を逆走し始めたときに、自らの身を挺して列車を止めて多くの乗客を救った場面である。雪の上に鮮血が飛び散った。

 映画を見終えて、友人二人と大倉山の体育館の石畳のだらだら降る坂を歩きながら、話をした。「あんな死に方できるか?」「いや俺はできひんな。」と友だちが話しているのを聞きながら、私は「ぼくならできるかもしれん」と内心つぶやいていた。私は、自分がどれほど臆病でエゴイストであるかをまるでわかっていない理想ばかりで内実のない青年だったのである。

 その映画を見てから一か月ほど後のある日曜日の夕方、私は図書館での勉強を終えて帰宅した。帰ってみると、母がいない。買い物に出かけているらしい。裏口から入って、台所を通り、玄関ホールに出ていつも祖母が寝ている部屋をのぞいたが、寝床は空っぽである。ふと階段を見上げると、そこに祖母がぶらさがっていた。自殺だった。私は怖くなっていったん外に出た。そして、心の中で「なんでこんな死に方をする。残された者の迷惑やろ。」と死んだ祖母をなじっていた。だが、このままでは母が最初の発見者になってしまう。それでは母があまりにあわれだと思った。若い日に母にさんざんつらく当たった祖母が呆けてしまってから、懸命に世話をしていたのは母一人だった。私は踵を返して家に戻り、110番してから、祖母の亡骸を左腕に抱きかかえ、右手に握ったカッターナイフで荷造りロープを切った。祖母の体はまだ温かくとても軽かった。「おばあちゃん。かわいそうなことをした。」そのとき初めて、人間らしい感情が湧いて来た。
 警察が来て、母が帰って来て、父が帰って来た。警察は事情聴取していた。「心当たりは?」と訊かれて、父は「なんとバカなことをしたのか。思い当たる動機はありません。」と言った。警察は事件性はないと判断してまもなく帰っていった。警察が帰ると、私は「何が思い当たるふしがないや?おばあちゃんは寂しくて死んだんやないか。」と父をなじった。「こんなとき、疑われるんは、私なんよ。」と母はつぶやいた。父は黙っていた。だが、ついさっき、祖母の亡骸を見たとき、私自身、死んだ祖母を「なんでこんな死に方をする?!」と心の中で非難したことを棚に上げていたのである。

 葬儀になって、遠くから親戚がやって来た。つらいのは母だった。結婚以来、姑に日本の嫁らしく口答えすることなくずっと務めを果たしてきて、最後の最後に、大きな挫折をした母だった。私はというと、親戚たちが「十七と言っても、男やねえ。」と言って、死んだ祖母について冷静に処置したことをほめることばを聞いて、むくむくと心の中に傲慢な思いが膨らんで来るのを感じて不快だった。

 葬儀が終わると、日に日に『自分のうちには愛なんてひとかけらもなかった。おばあちゃんの死を前にして、あんな言葉を胸の中で吐き出してしまった。』という、自分自身に対する絶望感が押し寄せて来た。『ぼくは何のために生きるんか。なんのために大学行くのか。こんな愛のひとかけらもない人間に生きる価値はあるんか。』そんなことを毎日つぶやいている三年生の秋だった。ある日の夕暮れ時、「お母さん。人間はなんのために生きるんやろう。」と台所仕事をしている母の背に向かって聞いたことがある。母はしばらく黙っていて、「そうねえ。なんのためやろうね。」とだけ言った。その時、ほんとうに辛かったのは母だったのである。

 そんな日々、私は「何も問題ないときには愛だとか理想的なことを言っていても、自分が窮地に追い詰められたら、自分はエゴイズムのかたまりでしかないことが暴露されてしまう。でも、この世に、ほんとうの愛なんてあるのか?・・・あるとしたら、あの十字架にかかって『父よ、彼らを赦したまえ』と祈ったキリストにだけあるんやろうな。」と考えるようになっていた。映画『塩狩峠』で聞かされた十字架のイエスが、暗闇に閉ざされた心の中ではるか彼方に見えていた。

 翌春、筑波大学の受験に臨んだ。私は国文学者になることを高校二年生から志し、ある教授に師事することを願って選んだ志望校だった。一次試験は合格し、二次試験までの間の宿でギデオン協会の新約聖書でマタイ福音書を通読した。あの映画で聞かされた「父よ、彼らをゆるしてください」というキリストの祈りを捜したが、マタイ福音書には見当たらなかった。二次試験は自分の得意科目ばかりだったので、当然合格するものと高を括っていたのだが、結果は不合格だった。

 浪人生活が始まった。親に経済的負担をかけるのがいやだったのと、得意科目の受験を予定していたので、毎日図書館にかよって自分で参考書と問題集で勉強することにした。関西大学で行われた夏の模擬試験の帰り、電車の中で萩原裕子さんというクリスチャンの同級生と一緒になった。私は吊革にぶら下がりながら、彼女にキリスト教についての不満や非難を込めた質問をいくつかぶつけた。すると彼女は、「私に聞かれても正しく答えられへんから、牧師の増永先生に聞いてみたら?今度の木曜日、うちで家庭集会があるから、その前に来たら会えるわよ。」と言われた。引っ込みがつかなくなった私は、木曜日、彼女の家に出かけていくことになった。

 ツクツクボウシが鳴く夏の終わりだった。萩原さんの家は石畳の坂を登り切った左にある大きく古い日本家屋だった。その一室に通されると、増永俊雄牧師はすでに端座しておられた。先生の背後の簾から光が漏れてくる。私はメモ用紙に10ほど難問を用意して、先生に向かってお話をした。

 印象に残ったことの第一は、なにをお尋ねしても、「聖書はこう言っています」とか「それは聖書に書いていないからわかりませんね」と答えられたことだった。この人には自分の考えというものがないのか?と思った反面、この人はほんとうに聖書が神のことばだと信じきっているのだと驚いた。
 印象に残った第二は、「私が生きているのは神の栄光のためです。私が神を信じるのもまた神の栄光のためです。」といわれたことだった。人生の目的をさがしあぐねていた私には、そのことばは暗闇に差し込んだ光だった。必ずしも意味はよくわからなかったのだが。
 印象の第三。中世の教会がおこなった魔女狩りや十字軍についてどう考えるのかという私の質問に対して、「私たちは神を信じているといいながらも、それほど罪深い者なのです。ですから、神の前に罪を認めてざんげするほかないのです。」と言われた点だった。おどろいた。いろいろと逃げ口上を言うにちがいないと思っていたから。

 このとき、増永先生は「水草君。英語にはTo see is to believe.ということばがあるでしょう。しかし、信仰の世界においては、To believe is to see.なんです。」と理性と信仰の関係について、含蓄あることをおっしゃた。

 この面談の後、私は萩原さんから、イゾベル・クーン『神を求めたわたしの記録』という本をプレゼントされ、三浦綾子旧約聖書入門』を貸してもらった。前者はある女性宣教師が若い日に、どのようにキリストを信じるにいたったかを記した体験談の本だった。「祈って求めると、聞いてくださる神がいるのか、へーっ」と思った。後者を読んで印象深かったのはヨブ記にかんする文章だった。ヨブという人はすべてを奪われたときにも、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」と祈ったという。二冊ともすぐに読んでしまったが、なお私はキリストを心に受入れようとしなかったが、とりあえず本屋で旧約聖書を手に入れて、ヨブ記を読んでみた。

 しかし、その後も私は神を信じることはせず、教会に通うこともしないままに12月になった。ある日、萩原さんから電話があった。「今度、教会の青年会でクリスマス会をするから、けえへん?」という話だった。というわけで、教会にのこのこ出かけて行った。それは私が卒業した中学校の正面にあった小さな普通の家だった。だが、入って見ると三十畳ほどのちゃんとした礼拝堂になっていて、正面には黒光りする説教卓があり、両側の窓は縦長のものだった。青年会のために、長テーブルを木の長椅子で囲んであった。クリスマスツリーもなければ、何も飾りがなかったような気がする。もしかしたらあったかもしれないが、ほとんど目立たない程度だったのだろう。集っていたのは高校生、浪人生、大学生、社会人という感じで、一人女性宣教師という人がいた。聖書を開いて読んで、なにか感想を言っていたらしいが記憶にない。ただ一つ心に残ったのは、集会の終わりになって祈りというのが始まったとき、最後に、「・・・神様、しかし、あなたの御心のようになさってください。」と祈るのが聞こえたことだった。祈りというのは、人間が自分の欲を神に押し付けるものだというイメージを持っていたので、新鮮に聞こえた。こうして、浪人のときの年が暮れた。

 翌年1月の半ば、ある夜のことだった。自室で机に向かっていると、なんとも表現できないのだが、胸に迫るものがあって、私は机につっぷして「神様!神様!」と呼んだのだった。祈り方も知らないから、それが私の精一杯だった。その夜,寝ているとき、胸の上にのしかかられる力を感じて目がさめた。部屋の電灯は消えているが、窓の外から街灯の光が入ってきていた。その大きな力に対して、私は「神よ。わたしをゆるしてください。わたしはあなたを信じます。」と祈ってしまったのである。翌朝、えらいことを祈ってしまったと思った。だが、あのように祈った以上、信じるほかないと思った。そのことを増永牧師あての手紙につづった。まもなく返信が届いた。

イザヤ書に『主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに呼び求めよ。』とあります。私たちの人生の中で神が近く臨んでくださることは、そんなにあるものではありません。水草くんにとって、今がそのときですから、機会を生かされるように。」という趣旨の手紙だった。こうして、私は次の日曜日から教会に通うようになり、イエスこそ生ける神の御子であると信じるようになったのである。