苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

御霊の実を結ぶ(聖霊について その4)

ガラテヤ5章13節から24節


1 キリスト者の自由

 ガラテヤ教会はもともと使徒パウロが開拓した教会でしたが、この手紙を書いた頃、救いの教えについて混乱が生じていました。それは、パウロがこの教会を去ったあと、エルサレム方面からやって来たユダヤ主義の人々が、「パウロが伝えた教えは不十分だった。私たちがお伝えするのが本物である。」と教えたからです。パウロは、神の前において自分の罪を示された人は、悔い改めて主イエスをわが救い主と信じ受け入れるならば、神はその人を義と認めてくださる」と教えました。ところが、ユダヤ主義者たちは「いや、悔い改めて主イエスを信じるだけではだめだ。私たちユダヤ人のように、割礼をはじめとするさまざまな律法に従って生活しなければ、神は義と認めてくださらない。」と教えたのでした。
 パウロは、ガラテヤ教会の兄弟姉妹がこういう混乱した状況にあることを知らされて、この手紙の前半でユダヤ主義者に反論してきました。人が神の前に義とされるのは、律法の行いによるのではなく、主イエスを信じる信仰によるのです。人はもろもろの律法の呪いから解放され自由にされているのです。では、キリスト者は、その与えられた自由をどのように活用して生きていくのか。それが次の課題です。

「5:13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
5:14 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。
5:15 もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」

 律法というのは、神が定めた人間の生き方の基準ですから、それ自体ただしいものなのです。しかし、それを実行できないのが私たち人間です。実行できない私たちは、律法の呪いの下にありました。けれども、主イエスが十字架において、その呪いを引き受けてくださったので、私たちは律法の呪いから自由になっています。でも、その自由を「肉」つまり利己的な性質の働く機会とせずに、愛をもって互いに仕えることが大事だ。その基準は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」に要約されているのだ、と使徒は語ります。
宗教改革者ルターは、キリスト者において次の二つの命題が同時に成り立つのだといいました。

 第一は、キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属していない。
第二は、キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、だれにも従属している。

 キリスト者は律法の奴隷ではありません。けれども、キリスト者は隣人に愛をもって奉仕するためには、時には自分のもっている自由を制限する自由が与えられています。愛の自発性によってなす奉仕によって、律法の要求を十二分に満たすのです。


2.御霊によって歩みなさい
 
 ところで「隣人を自分自身のように愛するという」ことは、口でいうのはたやすいかもしれませんが、家庭生活・社会生活・教会生活において実行するとなると難しいものです。ある著者は、家庭生活のなかにあなたの本当の姿が現れているのです。
アダム以来、私たちは生来肉的で利己的です。そんな私たちが、実際に、神を愛し隣人を自分自身のように愛せるでしょうか。それは、キリストを信じる者に、キリストがくださった御霊によるほかありません。
 「 5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。 5:18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」
 パウロは、イエス様を信じて歩み始めた私たちのうちには、葛藤が生じてくるという現実を述べています。それは、御霊と肉との葛藤です。私たちのうちに住まわれる御霊は、神様のみこころを行なうように私たちに求めます。ところが、肉の性質は神様をないがしろにし、隣人を道具にして自分の利益を求める性質です。ですから、霊と肉との葛藤が私たちの内側において生じるのです。
 しかし、「御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」とありますように、キリスト者は律法によって呪われ、罰せられるのが恐ろしいから、しぶしぶ律法にしたがう道を選択するというわけではありません。律法の呪いからは解放されているけれど、御霊様が私たちの内にあって、私たちの良心を清めて私たちに神のみこころをなすように求め給うので、神の御心を行ないたいと自ら願うのです。


3.肉の行い

 では、人間の肉という、神をないがしろにし、隣人をむさぼる利己的な性質から出る[肉の行い]とはどのようなものでしょうか。パウロは、それを具体的にリストアップしていきます。

「 5:19 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」

「不品行、汚れ、好色」というのは性的不道徳です。
「偶像礼拝、魔術」は、悪霊的な肉の行いです。占い、オカルトの類も含まれています。こうした誘惑はテレビやラジオなどを通じて入ってきます。
「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ」。これらは教会の交わりを破壊してしまう種類の肉の行いです。ガラテヤ教会では今この問題が深刻でしたから、多くのことばを用いて戒めています。これらは性的不道徳とか偶像礼拝といったあからさまな罪に比べると、わかりにくい種類の肉の行いかもしれません。敵意や争いを持つ人たちは「自分は正しい、あの人は間違っている」と一見、もっともな主張して、キリストの体である教会を傷つけるものだからです。警戒しなければなりません。
そして、「酩酊、遊興」というのは、酒に酔っ払って前後不覚になって、暴言・暴力・不品行といった罪を犯してしまうということです。
 「こんなことをしている者たちが、神の国を相続することはありません」とあります。「こんなことをしている」と翻訳されていることばは、「こんなことを常習的に行なっている(prassontes現在分詞)」という意味です。残念ながら、私たちはイエス様を信じてただちに完全になるわけではありませんから、イエス様を信じて後も時に罪を犯してしまうことはあります。けれども、聖霊によって新しく生まれた人は、これらの罪の中に常習的に住み続けることはできません。内に住まわれるきよい聖霊が悲しまれ、不愉快に思われて、その人に悔い改めを迫るからです。もし、ここに挙げられたような罪を常習的に犯し続ける生活をしていて痛くもかゆくもないとすれば、その人は実際には新しく生まれた人ではありませんから、神の国を相続することはできません。燃えるゲヘナに陥ることになります。
 人が新生するとは、豚が猫になるようなものです。豚はきれいに洗ってやっても、自ら好んで泥の中でごろごろして汚れてしまうものですが、猫はときに泥の中に落ちることがあっても、さっと飛び出して身づくろいするでしょう。


4.御霊の実

 では、御霊によって新しく生まれたキリスト信徒はどのような実を結ぶでしょうか。人は行いによって義と認められるわけではありません。けれども、義と認められ、新しく生まれた人は必ず御霊の実を結ぶようになります。なぜなら、その人のうちにはきよい御霊が住んでおられるからです。

「 5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
  5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。 5:26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。」

 御霊の実karposは単数形が用いられています(複数はkarpoi)。ですから、御霊の実というのはぶどうの房のような姿ではなく、ちょうどオレンジの中にたくさんの房があるように、ひとつの御霊の実の中に、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といった房があるということです。
 ですから、御霊の実を結ぶというのは、何かこの一つ一つを徳目のように掲げて修行をして達成していくといったことではありません。「きょうは愛だ」「今日は平安だ」「今日は善意だ」というふうに徳目をあげての修行ではないのです。そうでなく、日々、イエス様を見上げてみことばに親しみ、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝する生活を続けていると、おのずからこうした豊かな房をもちあわせた御霊の実が円満に結ばれることになります。それはとりもなおさず、鏡のようにイエス様の姿を映す者とされていくということです。
 人間が自力でがんばって自分を磨こうとすることにはえてしてひずみが生じるものです。「寛容こそ大事だ」ということばかりだと、ちゃらんぽらんになって誠実さにかけることになるでしょう。「誠実こそ大事だ」という人は、えてして不誠実な人をことさらに非難するようになる傾向があります。「喜びこそ大事」というふうに思うと、楽しいことばっかり追い求めて厳しい現実から逃避することもあるかもしれません。「自制こそ」と思う人は堅苦しくて喜びを失うでしょう。けれども、キリストの御霊が結ばせてくださる実には、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」というすべての房が入っているのです。
 キリストの御霊の実を結んでゆくということは、とりもなおさずキリストに似た者とされてゆくこと、天国の民にふさわしい姿に整えられてゆくことにほかなりません。小さなキリストとして、あなたはあなたの家庭・職場・地域に遣わされています。