苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

辱め、栄光

ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。」(ヨハネ13:31)

 最後の晩餐の席上、ユダがイエスを裏切り売り渡すために家を出て行ったとき、主イエスはこのように言われた。「栄光を受ける」ということは、主イエスが受難し十字架の辱めの中で処刑されることを意味している。辱めを受けることが、すなわち、栄光を受けることであるというのである。不思議なことば。御子がどこまでも父のみ旨に従うということのゆえに、その苦難も栄光というのはわかるのだが、それによって父が栄光を受けるというのはどういう意味だろうか。御子の十字架によって、父の救済のご計画が遂行されるから、ということだろうか。
 苦難とくに辱めなど避けて通りたく、栄光だけを欲しがちなものであるが、キリスト者の栄光は苦難の向こうにある。いや、むしろ、「向こうに」でなく、神のための辱めは、すなわち、栄光だということか。